源 実朝暗殺さる

戌の時、右大臣家八幡宮に拝賀の為参詣するの処、若宮の別当公暁、形を女の姿に仮り右府を殺す。源文章博士仲章同じく誅せられをはんぬ。[北條九代記]

戊子 霽、夜に入り雪降る。積もること二尺余り。
今日将軍家右大臣拝賀の為、鶴岡八幡宮に御参り。酉の刻御出で。
  行列
  先ず居飼四人(二行、退紅・手下を縫い越す)
  次いで舎人四人(二行、柳の上下・平礼)
  次いで一員(二行)
    將曹菅野の景盛  府生狛の盛光  将監中原の成能(已上束帯)
  次いで殿上人(二行)
    一條侍従能氏          籐兵衛の佐頼経
    伊豫少将實雅          右馬権の頭頼茂朝臣
    中宮権の亮信能朝臣(子随身四人)一條大夫頼氏
    一條少将能継          前因幡守師憲朝臣
    伊賀少将隆経朝臣        文章博士仲章朝臣
  次いで前駆笠持
  次いで前駆(二行)
    籐勾當頼隆         平勾當時盛
    前駿河守季時        左近大夫朝親
    相模権守経定        蔵人大夫以邦
    右馬助行光         蔵人大夫邦忠
    右衛門大夫時廣       前伯耆守親時
    前武蔵守義氏        相模守時房
    蔵人大夫重綱        左馬権の助範俊
    右馬権助宗保        蔵人大夫有俊
    前筑後守頼時        武蔵守親廣
    修理権大夫惟義朝臣     右京権大夫義時朝臣
  次いで官人
    秦兼峯
    番長下毛野敦秀(各々白狩袴・青一の腫巾・狩胡箙)
  次いで御車(檳榔) 車副四人(平礼・白張)、牛童一人
  次いで随兵(二行)
    小笠原次郎長清(甲小桜威)  武田五郎信光(甲黒糸威)
    伊豆左衛門尉頼定(甲萌黄威) 隠岐左衛門の尉基行(甲紅威)
    大須賀太郎道信(甲藤威)   式部大夫泰時(甲小桜)
    秋田城介景盛(甲黒糸威)   三浦小太郎朝村(甲萌黄)
    河越次郎重時(甲紅)     荻野次郎景員(甲藤威)
     各々冑持一人、張替持一人、傍路前行す。但し景盛は張替を持たしめず。
  次いで雑色二十人(皆平礼)
  次いで検非違使
    大夫判官景廉(束帯・平塵蒔の太刀。舎人一人、郎等四人。調度懸・小舎人童各々一人。看督長二人。火長二人。雑色六人。放免五人)
  次いで御調度懸
    佐々木五郎左衛門尉義清
  次いで下臈御随身
    秦公氏      同兼村     播磨貞文
    中臣近任     下毛野敦光   同敦氏
  次いで公卿
    新大納言忠信(前駆五人)    左衛門督實氏(子随身四人)
    宰相中将国道(子随身四人)   八條三位光盛
    刑部卿三位宗長(各々乗車)
  次いで
    左衛門大夫光員         隠岐守行村
    民部大夫廣綱          壱岐守清重
    関左衛門尉政綱         布施左衛門尉康定
    小野寺左衛門の尉秀道      伊賀左衛門尉光季
    天野左衛門尉政景        武藤左衛門尉頼茂
    伊東左衛門尉祐時        足立左衛門尉元春
    市河左衛門尉祐光        宇佐美左衛門尉祐政
    後藤左衛門尉基綱        宗左衛門尉孝親
    中條右衛門尉家長        佐貫右衛門尉廣綱
    伊達右衛門尉為家        江右衛門尉範親
    紀右衛門尉實平         源四郎右衛門尉季氏
    塩谷兵衛尉朝業         宮内兵衛尉公氏
    若狭兵衛尉忠季         綱嶋兵衛尉俊久
    東兵衛尉重胤          土屋兵衛尉宗長
    堺兵衛尉常秀     狩野七郎光廣(右馬允に任じる除書、後日到着すと)
  路次の随兵一千騎なり。
  宮寺の楼門に入らしめ御(たま)うの時、右京兆は、俄に心神御違例の事有り。御劔を仲章朝臣に譲り退去し給う。神宮寺に於いて御解脱の後、小町の御亭に帰らしめ給う。夜陰に及び神拝の事終わる。漸く退出せしめ御(たま)うの処、当宮の別当阿闍梨公暁が石階の際に窺い来たり、劔を取り丞相を侵し奉る。その後、随兵等が宮中(武田五郎信光が先登に進む)に馳せ駕すと雖も、讎敵を覓むに所無し。或る人の云く、上宮の砌に於いて、別当闍梨公暁父の敵を討つの由名謁(なの)らると。これに就いて各々件の雪下の本坊に襲い到る。
彼の門弟の悪僧等その内に籠もり相戦うの処、長尾新六定景と子息太郎景茂、同次郎胤景等が先登を諍うと。勇士の戦場に赴くの法、人以て美談と為す。遂に悪僧敗北す。
阿闍梨この所に坐し給わず。軍兵空しく退散す。諸人惘然の外他に無し。爰に阿闍梨は、彼(実朝)の御首を持ち、後見備中阿闍梨の雪の下北谷の宅に向かわる。膳を羞むるの間、猶お、手を御首より放さずと。使者彌源太兵衛の尉(阿闍梨の乳母子)を義村に遣わさる。
今、将軍の闕有り。吾専ら東関の長に当たるなり。早く計議を廻らすべきの由示し合わさる。これ義村の息男、駒若丸、門弟に列なるに依って、その好を恃まるるが故か。義村は、この事を聞き、先君の恩化を忘れざるの間、落涙数行し、更に言語に及ばず。小選、先ず蓬屋に光臨有るべし。且つは御迎えに兵士を献るべきの由これを申す。使者退去の後、義村使者を発し、件の趣を右京兆に告ぐ。京兆は、左右無く阿闍梨を誅し奉るべきの由下知し給うの間、一族等を招き聚め評定を凝らす。阿闍梨は太(た)だ武勇に足り、直なる人に非ず。輙くこれを謀るべからず。頗る難儀たるの由各々相議すの処、義村勇敢の器を撰ばしめ、長尾新六定景を討手に差す。定景(雪の下の合戦を遂げるの後、義村の宅に向かう)辞退すること能わず。座を起ち黒皮威の甲を着し、雑賀次郎(西国の住人、強力の者なり)以下郎従五人を相具し、阿闍梨の在所である備中阿闍梨の宅に赴くの刻、阿闍梨は義村の使い遅引するの間、鶴岡後面の峯を登り、義村の宅に到らんと擬す。仍って定景と途中に相逢う。雑賀次郎忽ち阿闍梨を懐き、互いに雌雄を諍う処、定景が太刀を取り、阿闍梨(素絹の衣・腹巻を着す。年二十と)の首を梟す。これ金吾将軍(頼家)の御息、母は賀茂六郎重長の女(源 為朝の孫女なり)、公胤僧正の入室、貞暁僧都の受法の弟子なり。定景は彼の首を持ち帰りをはんぬ。即ち義村、京兆の御亭に持参す。亭主出居しその首を見らる。安東次郎忠家が指燭を取る。李部仰せられて云く、正しく未だ阿闍梨の面を見奉らず。猶お、疑貽が有りと。抑も今日の勝事、兼ねて変異を示す事一に非ず。所謂、御出立の期に及び、前の大膳大夫入道(大江広元)が参進し申して云く、覺阿成人の後、未だ涙の顔面に浮かぶを知らず。而るに今昵近し奉るの処落涙禁じ難し。これ直なる事に非ず。定めて子細有るべきか。東大寺供養の日、右大将軍御出の例に任せ、御束帯の下に腹巻を着けしめ給うべしと。仲章朝臣が申して云く、大臣大将に昇るの人、未だその式有らずと。仍ってこれを止めらる。また公氏御鬢に候すの処、自ら御鬢一筋を抜き、記念と称しこれを賜う。次いで庭の梅を覧て、禁忌の和歌を詠み給う。

出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな

次いで南門を御出の時、霊鳩頻りに鳴き囀る。車より下り給うの刻、雄劔を突き折らると。また今夜の中、阿闍梨の伴党を糺弾すべきの旨、二位家より仰せ下さる。信濃の国住人、中野太郎助能、少輔阿闍梨勝圓を生虜り、右京兆の御亭に具し参る。これ彼の受法の師たるなり。[吾妻鏡]

[注1]京兆というのは右京大夫の唐名。第2代執権の北條義時(1163-1224)は右京権大夫であったために右京兆あるいは京兆と呼ばれた。
[注2]李部は式部卿の唐名。

[参考]実朝の首塚


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