1189年 文治5年

奥州の藤原秀衡の子の泰衡は父親の

「伊予守殿を大将軍として国務を励めば、陸奥・出羽領国を永久に保持出来るだろう」

との遺言を無視し、義経を衣川の館に攻め滅ぼす。

義経の首は家臣の新田冠者高平によって鎌倉に送られた。また、泰衡の弟の泉三郎忠衡は義経に与力したために鎌倉の軍勢によって討ち取られた。

非情なる判断が奥州藤原氏を救ったかのように見たのは泰衡一人にしか過ぎなかった。この時、鎌倉殿は既に再三の義経追討の宣旨を無視し続けた奥州藤原氏を討伐する決心を固め後白河法皇の宣旨を待っていた。

7月には千葉常胤に、祖の源 頼義が安倍貞任・鳥海宗任を討った時に倣った御軍旗を献上させる。同19日には、大庭景能の「軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」との故事を聞き宣旨を待たずに奥州討伐の軍を進める。


This page is powered by Blogger. Isn't yours?