1199年10月25日 甲申

結城七郎朝光が御所において夢でお告げがあったとして、幕下将軍(鎌倉殿、源 頼朝)のための勤行を行おうと仲間に勧める。その席で、朝光は「忠臣は二君に仕えずと言うが、鎌倉殿から受けたご恩一方ならないこの身でありながら、ご遺言のために出家遁世できなかったことは本当に悔やまれる」と往時を懐かしむ言動をとる。このことが、やがて梶原景時の耳に入り、二代将軍頼家に対する謀反の疑いありと讒訴されるに至る。結城朝光は、讒訴の次第を北條時政の娘で阿野全成(源 義経の兄)の妻の阿波局から知らされる。驚いた結城朝光は朋友の三浦義村に相談。三浦義村と安達盛長の呼びかけによって宿老66名が連署して梶原景時をとるか、御家人をとるかと迫る事態に発展。結局、景時は自分の不利を知り、鎌倉を引き払い在所に戻り、後に京へ一門を率いて上る途上で討たれる。


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