男鹿市秋田県

男鹿

斉明天皇の治世である658年、蝦夷支配のために、阿倍比羅夫は水軍180艘率いて秋田地方に進軍。この時、阿倍比羅夫に従った蝦夷の恩荷(おんが)があったと日本書紀は伝える。これが男鹿が登場する始まりという。

男鹿はなまはげの故郷として知られる。男鹿市の多くは男鹿半島が占める。

男鹿半島は山岳信仰の盛んな地であり、赤神神社五社堂、真山神社、万体仏といった三岳信仰の名残が今なお残る。戦国時代には安東氏が脇本城を築城し支配した。脇本城は檜山安東氏の総領・安東愛季の弟である脇本五郎脩季の居城であったが、後に湊安東氏をも統合した安東愛季自身が居城とした。

安東愛季は1587年北浦の戸沢盛安の叛乱を抑えるべく出陣した最中に急死する。その跡を継いだのが愛季の次男の実季。しかし、愛季の弟の茂季の子・通季が旧湊安東氏の旧臣達の支持を受けて叛旗を翻し湊城を奪う。実季は脇本城を大高相模に任せて、自身は檜山城に引いて籠城。由利十二頭の援軍によって通季を打ち破った。

安東実季は豊臣秀吉によって秋田郡など下三郡地方を安堵。湊城に本拠地を移して秋田城介を号して秋田氏を名乗った。関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に与した。しかし、1602年に常陸国の佐竹氏の秋田・仙北への移封に伴って常陸宍戸に転封された。秋田・仙北からは戸沢氏、六郷氏、小野寺氏も常陸国に移された。

以降、男鹿の地は久保田藩佐竹家の領するところとなった。

1954年3月31日に、南秋田郡船川港町、脇本村、五里合村、男鹿中村、戸賀村が合併して男鹿市は発足した。その後、1955年3月1日に、南秋田郡北浦町、船越町を編入。

2005年3月22日には旧琴浜村である若美町と男鹿市が合併し新制男鹿市となった。