東条城

愛知県は西尾にあるお城。

西尾城こと西条城の兄弟分です。

1467(応仁元)年に室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いに端を発した応仁の乱が勃発。東条城主の吉良義藤は舅の山名宗全(足利義政と日野富子との間に生まれた義尚を支持)に従って西軍として参戦。西条城の吉良義真は室町幕府管領の細川勝元(足利義政の実弟であり次期将軍とされた義視の後見人)に従って東軍として東条領を攻撃。この戦いの後に東条吉良義藤が幼い子の持清を残して死去。東条吉良持清を輔佐する形で三河松平氏宗家5代松平長親の子で青野城主の松平義春が台頭したと伝えられますが伝承の範囲を越えません。

東条吉良持清の子の吉良持広は1535(天文4)年に桜井松平信定に命を狙われた松平広忠は阿倍定吉によって東条吉良持広の支援を得て伊勢神戸に難を逃れています。更に、1536(天文5)年に松平広忠が三河に再入国する際には東条吉良家家老の富永忠安の室城に匿っています。

1539(天文8)年に東条吉良持広は死去。西条吉良義堯の子の義安が養子として東条吉良家を継ぎます。1549(天文18)年に尾張の織田信秀と駿河の今川義元ととの戦い(小豆坂の戦い)において東条吉良義安は織田方に付いたということで駿府に人質として囚われることになります。この措置に際して、今川義元は東条吉良義安の弟で西条吉良を継いでいた吉良義昭に東条吉良家も継がせて両吉良家の統一を図りました。

東条吉良義安は駿府での人質時代に同じく人質であった徳川家康(松平竹千代)と親しくなります。徳川家康と同じく東条吉良義安も桶狭間の戦いを機会として三河に復帰。一方の吉良義昭は今川から独立した徳川家康と戦いを繰り広げます。

1561(永禄4)年に東条城に入った吉良義昭は深溝松平松平好景の深溝城に焦点を絞ります。これに対して、深溝松平好景は岡崎中島城で臨戦態勢を敷き、続いて徳川家康が東条城を攻めに掛ります。猛攻に晒されながらも東条城は持ちこたえ、吉良義昭は家老の富永忠元に上野城を攻めさせ、これを知った深溝松平好景が岡崎中島城を出て深溝城に向った間隙を突いて、自ら岡崎中野城を攻めます。深溝松平好景は岡崎中島城に取って返しますが前後を吉良軍に抑えられて善明堤で全滅(善明堤の戦い)。この戦いで徳川勢は板倉好重も討死しました。岡崎中島城は吉良義昭の手に落ちます。

これに対して、徳川家康方の本多広孝と松井忠次は富永忠元を討ち取るべく東条城を目指して突撃。小競り合いの末に藤波畷において遂に富永忠元を討ち取ります(藤波畷の戦い)。富永忠元を失った吉良義昭は徳川家康に降伏して東条城を明け渡しました。吉良義昭は1563(永禄6)年に三河一向一揆に担がれて再び東条城を拠点として徳川家康に戦いを挑みますが松井忠次によって落城させられ追放されます。

なお、吉良家は吉良義安が継ぎ徳川家康が幕府を建てると高家として取り立てられることになります(この子孫が赤穂浪士の事件で知られる吉良義央)。

そして、東条城にはかつて東条吉良を輔佐した青野城主の松平義春の子の忠茂の子の家忠が入ります。これは、東条城の攻略に功績のあった松井忠次が東条松平家の与騎であり外戚であったこと、東条松平家忠の名代であったことによります。

東条松平家忠が1581(天正9)年に嗣子なく病没すると、徳川家康は四男の松平忠吉に東条松平家を継がせます。東条城は東条松平忠吉が1582(天正10)年に沼津城に移ったことで廃城となりました(東条松平忠吉は後に清洲藩52万石の藩主となるも嗣子なく早世)。


2008年9月30日訪問


永禄年間(1558〜1570)に東条城代の松井忠次が東条松平義春の菩提所として建立した康志山顕松院法応寺の址。法応寺は昭和30年代に廃寺。