苗木城

岐阜は中津川にあるお城。このお城は元弘年間(1331-33)に遠山孫太郎左衛門尉景長が築城した高森山砦が起源とされています。この高森山砦を苗木城として造り変えたのは、岩村城主の遠山景前の子の遠山景廉で、1552(天文21)年の頃とされています。

武田信玄が南信濃と美濃の国境に位置する伊那郡を制圧すると、遠山一族は武田氏の傘下に入ります。もっとも、遠山氏は完全に武田氏の臣下として組み込まれたかというとそうではありません。このことは遠山直廉が尾張の勝幡城主の織田信秀の娘を妻としているということからも分かります。ちなみに、直廉の兄で岩村城主の景任も織田信定の娘のおつやの方を妻としています。織田信定は織田信長の祖父で、織田信秀は織田信長の父にあたります。

遠山一族は、こうした武田家、織田家との関係から、1565(永禄8)年に成立した織田信長と武田信玄の間の同盟の仲介役も果たしています。そして、この織田武田同盟に際して、織田信長は、遠山直廉の娘で織田信長の姪にも当たる龍勝院(1553-1567)を養女にした上で、武田勝頼に嫁がせています。武田勝頼と龍勝院との間に産まれたのが信勝となります。

その後、遠山景廉は武田軍による美濃侵攻の先鋒として、下呂舞台峠の威徳寺の合戦で、萩原城主三木次郎右衛門尉と戦った際の傷によって、1572(元亀3)年5月18日に命を落としてしまいます。これに対して、織田信長は直ちに飯場城(飯羽間城)主・遠山友勝を苗木城主として入城させます。遠山友勝の嫡男の友忠には織田信長の姪が嫁いでいるという関係が背景にありました。続いて、8月14日には岩村城主の遠山景任が嗣子がいないまま病死。織田信長は自分の子の御坊丸(後の織田勝長)を岩村遠山家の養嗣子として岐阜城留守居・河尻秀隆や庶兄・織田信広を岩村城に派遣します。

これに対して、東美濃が織田信長の勢力圏に組み込まれることを嫌った武田信玄は伊那郡代の秋山虎繁(1527-1575)と芦田信守(-1575)を派遣して岩村城を奪います。これによって遠山氏による岩村支配は終わりを迎えるとともに、織田武田同盟も終焉を迎えます。

一方、当初、遠山友勝は嫡男の友忠を飯羽間城に残して来ましたが、領内の加子母の大島与三郎、付知の遠山玄蕃、福岡村の曽我与三右衛門が離反し始めると、友忠を呼びよせます。また、織田信長も叔父の織田忠寛(-1577)が目付として派遣されています。1572(元亀3)年に遠山友勝が病死すると、友忠が苗木城主となり友忠の子の友信が飯羽間城主となります。この年は武田信玄が西上作戦を始動した年でもあります。

武田信玄が志半ばで亡くなると、1574(天正2)年、武田勝頼が美濃に侵攻し、遠山十八子城を攻略します。この侵略戦で苗木城主遠山友忠の次男阿照羅城主友重は討死、嫡男飯羽間城主友信は武田家の捕虜とされてしまいます。織田信長は軍を派遣し遠山一族の救援を試みますが失敗。武田軍の進撃を食い止めるために、神箆城に河尻鎮吉、小里城に池田信輝を置くことが精一杯という情況でした。

翌年、長篠の戦いで、武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に大敗を喫します。

苗木城主・遠山友忠は武田軍と対峙しながら、新府城築城の負担に不満を抱く武田軍の木曽義昌に織田軍への寝返りを勧めます。そして、木曽義昌が謀反。武田家は一気に崩壊への道を歩み始めます。1582(天正10)年に、武田勝頼は今福筑前守昌和を木曽討伐に向わせますが、織田信長の援軍と苗木城主遠山友忠の援軍に支えられた木曽義昌軍は今福筑前守昌和を破り討死させます。しかし、この戦いで木曽義昌の生母や妻子が武田軍に処刑されてしまいます。

武田軍による木曽討伐と木曽義昌の家族の処刑に対して、織田信長が報復措置として武田勝頼討伐軍を編成し、織田信忠を大将として伊那から武田領に侵攻します。

同年3月11日、武田勝頼が織田信忠の軍勢によって討ち取られたのも束の間、6月21日の織田信長・信忠父子が明智光秀によって本能寺で討ち取られてしまいます。

織田方で海津城主となっていた森長可は、本能寺の変の報せを知ると、信濃国衆が叛旗を翻したため、本領の美濃兼山城への撤退を開始します。これに対して、美濃兼山と境を接する東美濃国人衆が遠山友忠、木曽義昌とともに森軍を迎え撃とうとします。しかし、逆に森長可によって動きを封じられてしまいます。そして、豊臣秀吉方に与した森長可は1583(天正11)年には苗木城を豊臣秀吉の許可を得た上で攻め落城させました。遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びます。この時、小里城主の小里光明も攻められ徳川家康を頼って落ち延びています。

森長可は本能寺の変の直後に甲斐で一揆衆に襲撃され横死した河尻秀隆の子の河尻秀長を苗木城主に据えます。森長可が1584(天正12)年に小牧・長久手の戦いで徳川家康軍と戦い討死し、1600(慶長6)年の関ヶ原の戦いで河尻秀長が西軍に属して討死すると、遠山友忠の子の友政が苗木城主として復帰しました。