木牟礼城

1186(文治2)年、惟宗忠久こと、島津忠久が薩摩・大隅・日向三国の地頭職に任ぜられた際に、出水の野田(山門院)に家臣で千葉一族の流れを汲む本田貞親を派遣し三州支配のために築城しました。

忠久自身も木牟礼城に一時期滞在しています。続く、忠時、久経は九州には下向せず鎌倉にいて、本田一族が統治を担いました。本田貞親の親の本田親恒の娘が畠山重忠の妻で、その間に産まれた娘が島津忠久の妻になっていました。これが島津忠久が本田貞親を派遣した大きな理由になります。

大隈国守護代の本田貞親には猿渡藤四郎実親、鎌田修理亮政佐、酒匂佐衛門尉景貞が同行し、在地領主の山門氏の支配を切り崩し島津氏の下向の地均しをしたということになります。

後に島津氏が下向し城に入ります。いわば、島津氏発祥の地。