権現山砦

千葉は八千代にある太田道灌(1432-1486)ゆかりのお城。

太田道灌は千葉孝胤(1459-1521)との争いの中で陣を置いた場所として伝えられています。太田道灌はここを拠点として、臼井、米本、小金、庁南へと兵を繰り出しました。

1455(享徳4)年、千葉一族で千葉家の家老の原胤房が千葉宗家の千葉胤直・胤宣父子を千葉城から追放します。背景には古河公方足利成氏派の原胤房と上杉派の同じく家老・円城寺尚任との対立があったとされています。

原胤房は馬加康胤を千葉宗家に擁立し、千葉胤直・胤宣父子、胤直の弟の胤賢、円城寺尚任を討ち取ります。

これに対して、室町幕府は千葉氏庶流で室町幕府奉公衆の東常縁(1401-1484)を派遣し原胤房、馬加康胤を討ち取りました。千葉胤賢の子の千葉実胤・自胤兄弟は扇谷上杉家の家宰太田道灌の保護下にありましたが、古河公方足利成氏の勢力に押されて下総への復帰は難しくなっていました。

そこで、千葉家庶流で印旛郡印東庄岩橋村にあった岩橋輔胤(1421-1492)が千葉家の家臣団に擁立されます。1471(文明3)年、関東管領 山内上杉顕定(1454-1510)が古河を落とし古河公方足利成氏を駆逐します。この足利成氏を庇護したのが岩橋輔胤です。

こうした中、1473(文明5)年に山内上杉家の家宰の白井長尾景信(1413-1473)が死去。白井長尾家の家督を子の白井長尾景春(1443-1514)が継承します。ところが、山内上杉顕定は白井長尾景春の叔父の惣社長尾忠景(-1501)を家宰とします。山内上杉家の家宰職は、鎌倉長尾家、犬懸長尾家、白井長尾家、惣社長尾家の四長尾家から順番に選出されることになっていたのですが、白井長尾景春は家宰となれなかったことを恨み山内上杉顕定に叛旗を翻します(長尾景春の乱)。

山内上杉顕定は混乱を収拾するために宿敵である古河公方足利成氏との和睦を扇谷上杉定正(1443-1494)とともに成立させます。

岩橋輔胤の跡を継いでいた千葉孝胤(1459-1521)は山内上杉・扇谷上杉の両上杉家と古河公方との和議が成立すると、扇谷上杉家に庇護されていた千葉実胤・自胤兄弟が正当な千葉家当主として認められることになるので反発します。実際、1478(文明10)年に室町幕府に千葉家当主として公認された千葉自胤が太田道灌の支援を受けて千葉孝胤の追討の兵を進めます。両千葉軍は下総国境根原で激突。千葉孝胤は敗れて臼井城に籠城。しかし、臼井城も陥落。千葉孝胤は落ち延びますが、千葉自胤軍も太田道灌の弟の太田図書助資忠(-1479)を失うなどの損失があった他、下総国内では千葉孝胤支持派が多かったために、千葉自胤は占領地を保持出来なくなり、結局は扇谷上杉領へと撤退します。

この一連の戦いで太田道灌が陣を布いたのが権現山砦で、今は飯綱神社となっています。