山口城

埼玉は所沢の下山口駅のすぐ近くにあるお城。

山口城は武蔵七党の一つ村山党の一族で、平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした山口家継によって築城されたと伝わります。西側には鎌倉街道が走っている他、南には柳瀬川が流れているなど古くからの交通の要衝。すぐ南には狭山丘陵があり、狭山丘陵の南側には村山党の本拠地である村山氏館もあります。

規模は東西約400メートル、南北約200メートルとされていますが、土塁などで囲まれた形を整えたのは室町時代の終わりだと考えられています。

1368(応安元)年に関東管領上杉能憲に河越直重らが決起した武蔵平一揆では城主の山口高清(-1368)は河越直重方として戦い、鎌倉公方・足利氏満と関東管領・上杉憲顕の軍勢に攻められて山口城は落城しています。攻城時に山口高清は河越館にありましたが、報せを聞いて急遽戻りましたが、間に合わず城は落城し夫人は入水自殺。山口高清は所沢の瑞岩寺にて自刃したと伝わります。

1383(永徳3)年に、山口高清の子の山口高治(-1383)は祖父の山口高実(-1383)とともに関東公方足利氏満に再び叛旗を翻すも再び敗れ自刃。

これ以降、山口高治の子の山口高忠は関東管領山内上杉家の重臣の守護代大石氏の支配下に組み込まれ、山口城の改修を行ったとされます。現在見られるものはこの山口高忠によるものなのでしょう。山口高忠は勝楽寺村に新たに根古屋城を築城しています。