馬橋城

千葉は松戸にあるお城。

1256(建長8)年、千葉氏第8代千葉頼胤(1239-1275)が小金に建築した小金屋敷が馬橋城の始まりです。

千葉頼胤は幼少で当主となったために一族の上総秀胤(-1247)によって輔佐されました。上総秀胤は名越光時・後藤基綱・三浦光村・三善康持らと共に鎌倉幕府第4代将軍九条頼経を中心として鎌倉幕府第4代執権北条経時(1224-1246)に対抗。これに対して、北条経時は九条頼経を退位させ子の頼嗣を第5代将軍に擁立して反執権派を牽制。

ところが、北条経時は重病に犯され、執権職を弟の北条時頼に譲り、九条頼嗣の擁立から2年後に急死。

1246(寛元4)年、北条経時の死の直後に名越光時・上総秀胤らが北条時頼打倒を目指して御家人を結集。一方、決起の情報を事前に得ていた鎌倉幕府執権・北条時頼は鎌倉の切り通しを封鎖。名越光時は決起の情報が漏洩したことを悟り降伏。

名越光時は所領没収され伊豆に追放、前将軍の九条頼経も京都へ追放。上総秀胤は下総埴生西・印西・平塚の所領を没収され上総へと追放されます。下総埴生西・印西・平塚はこの金沢流北条家の金沢実時の所領となります。三浦泰村は北条時頼への恭順を誓ったために許されています。

しかし、1247(宝治元)年、三浦泰村・光村兄弟が幕府宿老安達景盛の挑発によって宝治合戦が勃発。三浦泰村・光村兄弟は自害して果てます。三浦氏の娘婿だった上総にあった上総秀胤にも討伐命令が発せられ、大須賀胤氏・東胤行らが上総秀胤の居館である上総玉崎荘大柳館を攻撃。上総秀胤ら一族郎党163名が討死しました。

宝治合戦の影響は千葉宗家にも及び千葉宗家は千葉一族の結束に苦心することになります。この時代に当主であったのが千葉頼胤になるのです。

1455(享徳4)年、原胤房は千葉氏宗家の千葉胤直・胤宣父子を追放し、第14代当主・千葉満胤の次男であった馬加康胤を擁立。室町幕府第8代将軍足利義政は千葉一族の美濃郡上郡篠脇城主東常縁に平定を命じ、原胤房・馬加康胤が討伐されます。その後、岩橋にあった千葉一族の千葉孝胤が千葉宗家を名乗りますが、幕命を奉じる太田道灌との境根原の合戦に敗れたことで、1478(文明10)年に馬橋城は廃城となりました。