上本郷城

千葉は松戸にあるお城です。上本郷字花台という、いわゆる舌状台地(tongue-shaped plateaus)にあります。

『千葉県史料』『千葉伝考記』『千葉大系図』によると千葉貞胤(1291-1351)によって築城されたと伝わります。千葉貞胤は千葉宗家第9代千葉胤宗と金沢流北条顕時の娘との間に生まれました。北条顕時は、1285(弘安8)年に内管領・平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動の余波で、安達泰盛の娘・千代野を正室としていた北条顕時は領地であった下総埴生庄で出家しています。金沢流北条氏は千葉氏と関係が深くなったのも下総埴生庄に所領を持っていたからだと言われています。

楠正成が倒幕の挙兵を行った際に、千葉貞胤は従兄弟の金沢流北条貞冬(-1333)の配下として参軍しています。もっとも、1333(元弘3)年に新田義貞が倒幕の挙兵を行うと、下総にいた千葉貞胤も同調して倒幕の挙兵をしています。その後、千葉貞胤は武蔵忍岡で小山秀朝と合流し、武蔵鶴見で従兄弟である鎌倉幕府下ノ道大将の金沢流北条貞将と戦って討ち破っています。血縁関係にあり、かつ、主家でもあった金沢流北条氏の一族は鎌倉東勝寺において鎌倉幕府執権を務めた北条得宗家ら北条一族とともに自刃しています。

一方で、千葉貞胤は新田義貞とともに鎌倉を陥落させた功績によって、下総・遠江・伊賀守護に任じられました。下総・遠江・伊賀守護は金沢流北条氏の家職でしたので、その配下の千葉氏が引き継いだとも言えます。

鎌倉幕府が滅亡すると、倒幕側の後醍醐天皇と足利尊氏の間に立場の違いから亀裂が生じ干戈を交えることになります。この南北朝の戦いで、本来は宗家となるはずだった千田の千葉胤貞(1288-1336)と宗家である貞胤との間で対立が激化。千葉貞胤は後醍醐天皇方として京都に留まる一方で、足利尊氏方の千葉胤貞は宗家の地位を奪還すべく、千葉貞胤の領地に攻撃を行います。千葉貞胤は1336(建武3)年に新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて越前国へ下向する際に従軍。途中、足利方の越前守護職・斯波高経に攻められ降伏します。これ以降、千葉貞胤は足利方となり両千葉家の争いは収拾されました。

戦国時代には高城氏の支配下に置かれたと言われています。なお、千葉胤貞の子の高胤の子の長男胤親が原氏、次男胤雅が肥前国高城を領して、原氏、高城氏となったといいます。原氏、高城氏ともに下総にも千田千葉家の千葉胤貞以来の所領を持ち、下総千葉氏の重臣となった一族です。

現在、城の跡地には千葉氏が帰依した時宗の本福寺、千葉氏の守護神の明治神社(妙見社)があります。


カンスケ井戸