大椎城

千葉市内にある千葉氏発祥の地です。

房総平氏の祖の平忠常(967-1031)が築城したと伝わります。

平安時代の中頃、桓武天皇の孫の高望王は臣籍降下し平高望として、898(昌泰元)年に上総介に任ぜられて、国香、良兼、良将といった息子達とともに上総に赴きます。平高望は上総介の任期が切れても京都へは戻らずに、房総の地に留まります。

国香は前常陸大掾の源護の娘を妻とし、良将は下総相馬郡の犬養春枝の娘を妻とし、それぞれ勢力を拡大していきます。平国香(-935)は常陸平氏、越後平氏、平清盛に繋がる伊勢平氏の祖に当たります。千葉氏、上総氏といった房総平氏の祖は平高望の子の平良文(886-952)ですが、側室の子だった良文は父親の上総下向には同行していません。平良文は父親とは別に醍醐天皇(885-930)による相模国治安維持の勅令によって相模に下向しています。

良文の最初の本拠地は武蔵国熊谷郷村岡とも相模国鎌倉郡村岡とも言われています。鎮守府将軍となり胆沢城で俘囚の叛乱を鎮圧した後は、下総国海上郡、阿玉郡(小見川の阿玉)に居を構えたとされています。

下総相馬を本拠地とする平良持の子の平将門(-940)は常陸の源護、叔父の平国香と領地を巡って対立。935(承平5)年、源護の息子の源扶は平将門を襲撃しますが反撃にあって討死します。平将門は常陸国真壁の源護の館にも進撃し焼き討ち、叔父の平国香は戦乱の中で亡くなります。

これに対して、平国香と同じく源護の娘を妻とし、常陸国水守に本拠を構えて居た弟の平良正が源護側に付き、常陸国新治郡川曲村で戦闘となります。この戦いでも平将門が勝利、平良正は一族の長である上総介良兼(-939)に支援を求めます。

上総介良兼と平国香の嫡男・平貞盛(-989)、平良正は平将門と争いますが劣勢に立たされます。上総介良兼は勢力を失ったまま939(天慶2)年に病没。平貞盛は劣勢に立たされますが、母方の叔父の藤原秀郷の力を借りて大軍をもって平将門が本拠としていた下総国猿島郡に押し寄せ、遂には平将門を討ち取ります。

平将門による承平天慶の乱の最中、平将門と親しかった平良文は中立の姿勢をとっていたと考えられています。また、平将門と関係が深かったために、乱後に将門の旧領である下総国相馬郡を所領として得ています。

平将門に代わって下総国相馬郡に所領を得た平良文の孫が平忠常(967-1031)になります。平忠常は広大な領地を受け継ぐとともに上総介、武蔵押領使にも任ぜられています。平忠常は領有権を巡る対立から1028(長元元)年に安房国府を襲撃し安房守平維忠を焼き殺してしまいます。この平維忠は、平貞盛の次男・維将の息子だと言われています。

上総国司・縣犬養為政も前上総介平忠常の勢力に押されて政務を執れない情況となります。

これに対して、朝廷は平貞盛の孫で鎌倉を本拠地としていた平直方を追討使として任命し房総平定を命じます。平直方は持久戦で平忠常を追い詰めますが、早急なる討伐を求める朝廷は、平直方を解任。代わって、平忠常が家人であった道長四天王・源頼信(968-1048)に討伐を命じます。

平忠常は源頼信に降伏。平直方は娘を源頼信の子の源頼義に嫁がせ鎌倉の地を譲ります。

平忠常は主家である源頼信によって京都に連行される途中、美濃国野上で病死します。但し、平忠常の子の常将と常近は罪を許されました。

下総に戻った平常将は立花庄大友に本拠を構えたとされています。一方、大椎城には平常将の子の千葉大夫・平常長(1024-1108)が本拠とし、続いて、その子の千葉大介・平常兼(1045-1126)が引き継ぎました。千葉大介・平常兼は千葉氏の祖で、弟の常晴が上総氏の祖になります。

千葉大介・平常兼の子の下総権介・常重(1083-1180)は叔父の常晴から下総郡相馬の郡司職を承継し、1126(大治元)年の父・常兼の死去によって下総千葉郡を承継、相馬・千葉両郡を支配するようになると、鳥羽法皇に対して千葉郡中心地を千葉荘として寄進。千葉荘経営のために亥鼻城を築城し、大椎城を去っていきました。