加瀬城

太田道灌が自らの江戸城と主君の扇谷上杉定正の糟屋館との中継拠点として取り立てようと計画したという伝説で知られる城。なんでも、鷲が自分の兜をくわえて城の南の丘に落とすという夢を見たといい、そのために、夢見ヶ崎という地名が生まれました。もっとも、太田道灌はこの夢を不吉な夢として結局は築城しなかったといいます。また、この地での築城を断念して江戸城を築城したとも伝わりますので、中継地点というよりは、西には矢上川、東には鶴見川、近くには鎌倉街道という交通の要衝であったことが築城を計画させた動機だったかもしれません。

もとより、この地には鎌倉時代中期頃に、加瀬左近資親が城を築いたと言われます。つまり、太田道灌は古城を取り立てようとしていたことになります。