黒野城

1597(慶長2)年に加藤貞泰が岐阜の黒野に築いたお城。

加藤氏は西美濃安藤氏の一族で古くから美濃黒野を所領としていました。加藤貞泰の父の加藤光泰(1537〜1593)は斎藤道三の孫の斎藤龍興に仕えていたものの、1567(永禄10)年に西美濃三人衆の稲葉良通、氏家直元、安藤守就が織田信長に内応し稲葉山城が落城、斎藤龍興が北伊勢の長島に亡命すると、近江に逃れます。

しかし、織田信長配下の豊臣秀吉によって召し抱えられ、本能寺の変の後の山崎の戦い(1582)で明智光秀の軍を切り崩した戦功によって丹波周山城を与えられます。その後、近江貝津城、大溝城を経て尾張犬山城に移封。豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康との間の小牧・長久手の戦いでは犬山城を守りぬいています(1584)。

1585年には美濃大垣城を与えられますが、蔵入地の横領の嫌疑で蟄居処分を受けます。1587(天正15)年には赦免され佐和山城主となります。1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐において山中城を落城させた戦功によって甲斐24万石を与えられます。加藤光泰は甲府城の築城も開始しますが、文禄の役で出兵中に朝鮮半島にて病没します(対立した石田三成による毒殺とも)。

加藤光泰の甲府領は没収され浅野長政・幸長親子に与えられます。加藤光泰の子の加藤貞泰(1580〜1623)は甲府から黒野に移封となりました。この時に黒野城の築城を開始しています。黒野城の規模は東西約1,000メートル、南北約800メートルで本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれたものでした。

黒野城が完成して二年後の1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いにおいては当初は石田三成の要請を受けて犬山城を守備。しかし、父親の件があったためか、東軍に寝返り、井伊直政の軍勢に加わり、西軍の長束正家が守備する水口岡山城を落城させた功績によって黒野の所領を安堵されます。

加藤貞泰は1610(慶長15)年に黒野藩4万石から伯耆米子藩6万石に加増移封されたために黒野藩は廃城となりました。