波多野城

波多野氏は、源氏の譜代中の譜代の一族。平治の乱の後に平家方に与し、源 頼朝の挙兵にも応じなかったために、波多野義常は所領を没収されるはずだった。

しかし、1169(嘉応元)年に叔父の義景が惣領となったことで本領を保った。そして、有経の代にほぼ旧領を回復。中学校と城跡との間には旧河床を利用した空堀が見事な形で残っている。西側には金目川が流れ堀の代わりとなっている。

ちなみに、この波多野氏からは永平寺を創立した越前波多野氏、明智光秀と戦った丹波波多野氏、豊後の大友氏が出ている。また、西に1キロほどの田原ふるさと公園にある実朝の首塚の南側にも居館跡が確認されている。

源実朝の首塚

首塚と書いてみしるしつかと読む。1219(建保7)年に、鎌倉幕府の第3代将軍源実朝は、甥の公暁に鶴岡八幡宮の境内で暗殺。しかし、公暁が討ち取られても実朝の首は見つからなかったという。その実朝の首は、公暁を討った武常晴が波多野忠綱を頼って供養を願い出たためと伝えられる。かつては、木造の五輪の塔もあったというが、忠綱が1250(建長2)年に伽藍を整備した金剛寺の所有となった後に、現在では鎌倉国宝館に展示されているとか。

首塚の場所は、秦野駅で神奈川中央バスの藤棚行きに乗って中庭で下車すぐ。バス停のそばに案内板があるので分かりやすい。