蕨城

埼玉は蕨にある足利一門の渋川氏のお城。1457(享徳元)年に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し享徳の乱が勃発します。この乱を平定するために、室町幕府第8代将軍・足利義政は異母兄の足利政知を鎌倉公方、犬懸上杉教朝を関東執事、一門の渋川義鏡を関東探題として派遣。渋川義鏡は前線となっていた蕨の地に城を築きます。これが蕨城。蕨の地が渋川氏の所領であったことから蕨を選んだと言われています。

1462年に渋川義鏡と扇谷上杉持朝が兵粮料所の設置を巡って対立。第8代将軍足利義政から譴責されると、扇谷上杉家の重臣大森氏頼・三浦時高・千葉実胤が引責隠居。この前年に扇谷上杉家の太田道真が隠居。関東執事・犬懸上杉教朝が自害しています。一連の騒乱で、堀越公方・足利政知は扇谷上杉持朝の相模守護職を接収。

内部の騒乱の拡大を嫌った幕府は扇谷上杉持朝支持を明確にし、結果として渋川義鏡が失脚。蕨城は養子の渋川義尭が継ぎます。

この時点で蕨城は扇谷上杉氏の支配下に組み込まれます。ところが、1526(大永4)年に北条氏綱によって落城。これを、1246(大永6)年に扇谷上杉朝興が真里谷恕鑑と里見義豊の支援を得て奪還。これで終わらず、1546年に北条氏康が上杉朝定を河越城の戦で戦死させると、蕨城は再び小田原北条氏の支配下に入り、渋川一族も北条氏の家臣となります。

1567年には渋川義基(宝樹院)が北条氏tと里見義弘との上総三船山で合戦で討死。渋川一族は四散。

後に、荒廃していた蕨城を徳川家康が鷹狩御殿として用いています。


宝樹院の宝樹院殿・竜体院殿碑