岐阜城

このお城も有名ですね。

岐阜城は鎌倉時代に二階堂行政が稲葉山に築いた要害が始まりとされています。二階堂行政は、母が源頼朝の外祖父の熱田大宮司・藤原季範の妹という関係から源頼朝に仕え、大江広元、三善康信らとともに実務官僚として鎌倉幕府を支えています。父親は工藤行遠なのですが、鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂を称しました。二階堂家は鎌倉幕府の政所執事を世襲しました。

二階堂行政の後は娘婿の伊賀朝光が稲葉山の要害を引き継いだとされます。伊賀朝光は娘の伊賀の方が鎌倉幕府第2代執権北条義時の妻となったことから鎌倉幕府で重きをなします。

伊賀氏は北条義時の死後、伊賀朝光の子の伊賀光宗と伊賀の方の兄妹が、伊賀の方の実子の北条政村と娘婿の一条実雅(源頼朝の同母妹・坊門姫を妻とした一条能保の子)を鎌倉幕府将軍に据えようとするものの北条政子に阻止され追放されます(伊賀氏の乱)。

1225年に北条政子が亡くなると、伊賀光宗は許され後には評定衆に列せられています。岐阜城は伊賀光宗が伊賀の乱で信濃に配流になっている間、弟の光宗が引き継ぎました。この時、伊賀光宗は名字を伊賀から稲葉に改めます。

その後、光宗の弟の稲葉光資、一族の二階堂行藤が継ぎますが廃城。

15世紀の中ほどに、美濃守護代の斎藤利永が廃城となっていた稲葉山城を居城とします。斎藤利永の弟が斎藤妙椿に当たります。斎藤家は美濃守護の土岐家の重臣。

1387(嘉慶元)年に美濃守護土岐頼康が亡くなると、土岐頼康の弟・頼雄の子の康行が土岐家を継ぎます。土岐康行は従兄弟の詮直を尾張守護代として美濃・伊勢・尾張を統治します。これに対して、守護大名の弱体化を目指す室町幕府将軍足利義満は、土岐康行から尾張守護職を奪って康行の弟の満貞に与えてしまいます。この背景には満貞が将軍足利義満に近侍していたということがあります。

土岐満貞は新守護として軍勢を率いて尾張に向います。しかし、前尾張守護代の土岐詮直が反発し黒田宿で合戦となり、満貞を京都に敗走させます。これを好機とみた将軍足利義満は1389(康応元)年に、土岐西池田家の土岐頼忠・頼益父子に土岐康行討伐を命令。土岐康行は戦いに敗れ没落(土岐康行の乱)。土岐家は尾張守護職と伊勢守護職を剥奪され美濃守護職のみを土岐西池田家の土岐頼忠が継ぐことが許されることとなります。なお、土岐康行は1391(明徳2)年に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に叛旗を翻した明徳の乱における戦功によって許され、1400(応永7)年には伊勢北半国守護に任じられています。土岐家代々の家臣団や土岐家庶流はこの土岐世保家に従いました。

このように土岐歴代の家臣団と土岐家庶流が土岐康行に従ったために、新しく美濃守護となった土岐頼忠は外様の富島家や斎藤家を守護代として新たに登用します。斎藤家は鎌倉時代からの美濃目代の家柄でしたが、土岐家が美濃守護職となったことで土岐家の家宰として家臣団に組み込まれていました。

そして、土岐頼忠の孫の土岐持益(1406〜1474)は若年で守護職に就き、かつ、守護代の富島又五郎も若年であったために、斎藤祐具(経永)の影響力が高まります。斎藤祐具(経永)の子の斎藤利明(宗円)が1444(文安元)年に対立する美濃守護代の富島高景を京都の土岐屋形において殺害。富島高景は元は長江高景と言って富島家の外戚だった関係で富島家を継いだ人物。長江家は相模国三浦郡長江村を発祥の地とする桓武平氏良文流鎌倉氏族。土岐家家宰斎藤家と守護代富島家とは対立しながらも辛うじて均衡を保っていたものの、外戚の長江高景が富島家を継いだことからバランスが遂に崩れたのです。

難を逃れた富島八郎左衛門は美濃において挙兵。守護土岐持益と斎藤利明(宗円)の軍勢と戦いを繰り広げます。その間、斎藤利明(宗円)は美濃守護代になりますが、1450(宝徳2)年に京都において富島家の家臣によって暗殺されてしまいます。

斎藤利明(宗円)の子の利永は報復として富島氏・長江氏を討伐。美濃守護・土岐持益の嫡男・持兼が早世し、持益が持兼の子の亀寿丸を後継に据えようとしたものの、美濃守護代斎藤利永は隣国の尾張知多郡分郡守護一色義遠の子の成頼を美濃守護職に据えて持益を隠居させました。

斎藤利永の死後は子の利藤が美濃守護代となりますが、利永の弟の妙椿が実権を握ります。そして、斎藤妙椿が亡くなると、妙椿の養子となっていた異母弟の利国との間で後継者争いが勃発(美濃文明の乱)。利藤は墨俣城を拠点に戦い敗れて京都で室町幕府の庇護を受けますが、利国と和解し美濃守護代に就任します。但し、実権は持是院家と呼ばれた斎藤利国(妙純)が握り続けます。この美濃文明の乱で、持是院家斎藤利国(妙純)方として戦功があったのが石丸利光であり斎藤を名乗ることを許されます。

美濃守護代斎藤家の後継者争いが終焉してひと段落と思いきや、今度は美濃守護土岐成頼の後継争いが勃発。土岐成頼は嫡男の政房よりも末子の元頼を後継者にと考えるようになり、これに美濃守護代斎藤利藤と石丸利光が同調。土岐政房を擁立する加納城の斎藤利国(妙純)との間で戦いの火蓋が切って落とされます(船田合戦)。戦いは尾張上四郡守護代岩倉織田家の織田寛広が斎藤利国(妙純)に与して参戦したため、一旦は斎藤利国(妙純)が勝利。石丸利光は近江に逃亡。美濃守護の土岐成頼も城田寺城に隠居し政房が美濃守護に就任します。

ところが、石丸利光は室町幕府管領細川政元の支援のもと、土岐元頼を総大将として城田寺城に入城。斎藤利国(妙純)は朝倉貞景と京極高清に支援を要請。一方の石丸利光は六角高頼に支援を要請。六角高頼は城田寺城へと向う途上で京極高清の軍と戦いとなり敗北。ここで事実上勝敗は決し、石丸利光は土岐成頼の助命と引き換えに切腹。土岐成頼は城を出ることが許されたものの元頼は許されず、城田寺城には火が放たれ元頼は自刃。

戦後、斎藤利国(妙純)は援軍を出してくれた京極高清の要請によって六角高頼の討伐のために近江に出陣。この出陣の戦乱の最中に疲弊した地元民による土一揆に襲撃され嫡男の利親とともに戦死。斎藤利親の子の斎藤利良は幼少であったために、利親の弟の又四郎と彦四郎が持是院家斎藤家の当主を相次いで継ぎます。

1517(永正14)年に再び土岐家で後継者争いが勃発。美濃守護代斎藤利良は美濃守護土岐政房の嫡男頼武を推し、美濃守護土岐政房と小守護代長井長弘は次男の土岐頼芸を推して合戦に及びます。長井家は美濃守護代斎藤家の一族で竹ヶ鼻城主を務める家。美濃守護代斎藤利親が亡くなった後に子の利良を補佐したのが長井利隆・長井長弘。