羽生城

「のぼうの城」で知られる隣の忍城と同じく水城であった羽生城です。

1540年代に上杉謙信の配下であった広田直繁・木戸忠朝兄弟によって築かれました。

木戸氏といえば古河公方の家臣にも一族がいます。要するに、羽生一帯の小大名が木戸氏に当たります。

羽生城は北条方に付いた忍城の成田氏によって落城。木戸氏は小大名としての役割を終えました。

ちなみに、成田氏は上杉謙信が関東に入った際に馬上から降りずに礼をしたため上杉謙信の不興を買い攻められます。その時に最前線に立ったのが羽生城主木戸兄弟です。

関東武士団には家格があって鎌倉(古河)公方が筆頭、関東管領の山内・扇谷上杉氏が続き、結城氏などの八屋形が次になります。成田氏は八屋形の直下に当たることや歴史的経緯から源頼朝から馬上での礼を許可されていたため、歴代の鎌倉幕府将軍や歴代の鎌倉(古河)公方にも馬上での礼を許されていました。上杉謙信は長尾家の末流から没落した上杉家を継いだために、関東武士団の儀礼に通じていなかったと考えられています。

いづれにしても、関東武士団としての歴史を軽んじられた成田氏と、無礼ではないのですが自分基準で無礼だと信じる上杉謙信に挟まれて、そこを何とかと苦心したのが木戸兄弟。

木戸兄弟は攻め方が甘いと上杉謙信から制裁を課されてもいます。今も昔も難しいものです。