掛川城

山内一豊で知られる静岡県は掛川のお城。

ちなみに、このお城の石段を登る途中で写真を撮ることに気を取られ足を踏み外して転落。

幸いにも、転落には慣れているのでカメラは無事でした。

こういう場合に備えて、暑い中でも長袖は必須です。でないと傷だらけになります。

掛川城は駿河国守護・今川義忠[1436-1476]の命を受けて、斯波氏への境目の城として、朝比奈泰煕[-1512]が掛川古城を築城したことに始まります。

朝比奈氏は駿河朝夷郷を発祥地の地とする一族で、鎌倉時代の初代侍所別当・和田義盛が北条氏に戦いを挑んだ和田合戦[1213/建暦3]で、一族の滅亡後に船6艘、兵500騎で海上へと消えた息子の朝比奈義秀を祖とするとも、平安時代の公卿で藤原北家の堤中納言兼輔[877-933]の末裔である堤公国の子・国俊が朝夷郷を本貫としたことから始まるともされています。

朝比奈泰煕の跡は子の朝比奈泰能[1497-1557]が叔父・朝比奈泰以の後見を受けて継いでいます。この泰能の代に掛川城の普請が行われ、掛川古城から移りました。朝比奈泰煕の死の翌年には、泰以は朝比奈軍を率いて、駿河守護・今川氏親と対立する遠江守護・斯波義達との戦いに出陣し、井伊谷城主・井伊直平[1489-1563]や曳馬城主・大河内貞綱[-1517]の軍と干戈を交え勝利。

泰以の死後、泰能は三浦氏満と並ぶ今川家重臣として成長し、今川氏親・氏輝・義元の3代にわたって宿老として仕えます。また、一族の朝比奈泰長・元智兄弟には浜名湖西岸の宇津山城を守備させています。1549[天文18]年に岡崎城主・松平広忠[1526-1549]が岩松八弥により殺害されると岡崎城接収も行っています。1557[弘治3]年8月30日に病死。その3年後の1560[永禄3]年に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまいます。

今川義元の討死で混乱する今川家中で、朝比奈泰能の子・朝比奈泰朝は今川家を継いだ今川氏真[1538-1615]を支え続けました。1562[永禄5]年には井伊家の家老・小野但馬守道好[-1569]により謀反の嫌疑が掛けられた井伊直親[1536-1563]を今川氏真の命によって討ち取っています。

1568[永禄11]年に武田信玄[1521-1573]による駿河侵攻が開始されると、朝比奈泰朝は今川氏真を駿府から掛川城に迎え入れます。しかし、西から徳川家康が侵攻。掛川城は包囲されてしまいます。5ヶ月にも及ぶ籠城戦の末、今川氏真は徳川家康に降伏し掛川城を開城。伊豆へと退去します。朝比奈泰朝も主君・今川氏真に従って伊豆に退去し、掛川城は徳川家康の支配下に置かれました。