松倉城

岐阜は高山にある山城です。

こんな山奥にこんな見事な石垣があるなんてというお城です。

ここまでの道のりは寂しくなるような感じです。

三木氏のお城。

飛騨国は本能寺の変に続く天正壬午の乱,賎ヶ岳の戦いに加わらず,三木自綱・秀綱による統一が推し進められました.

飛騨国司・姉小路済継(1470-1518)が急死し,姉小路済俊(1506-1527)が家督を継ぐものの早世.弟の田向重継(-1576)が高綱として姉小路家を継ぐものの,国人衆である三木良頼(1497-1554)によって1556(弘治2)年に滅ぼされます.

三木氏は,もともと,近江三木の出身で,出雲・隠岐・飛騨守護京極高数(-1441)が多賀四郎衛門尉を1435(永享7)年に飛騨守護代として派遣した際に多賀氏の被官として飛騨入りしたのが三木氏の始まりとされています.京極高数は飛騨守護代姉小路尹綱が京極氏に叛旗を翻した飛騨の乱(1411年)の際に信濃守護小笠原持長らとともに幕命を受けて出兵し姉小路尹綱を討ち取った人物.姉小路氏はこの叛乱によって,古川家・小島家・向小島家の三家に分裂することとなります.

三木久頼は寛正年間(1461-1466)に萩原の白井氏を滅ぼして飛騨南部を手中に収めます.1521(大永元)年には,三木直頼が天神山城の高山外記を破って高山盆地を勢力圏に組みこみました.この三木直頼の子が姉小路家を滅ぼした良頼になります.

こうして,飛騨の有力者として台頭した三木良頼の子が三木自綱(1450-1587)になります.三木良頼は1558(永禄元)年に飛騨守に任じられると,その翌年,姉小路家の名跡を息子の三木自綱に継がせます.さらに,1562(永禄5)年には自らも姉小路を名乗ります.

これに対して,姉小路家は小一条流藤原氏という名家であったことから,正親町天皇(在:1557-1586)と関白近衛前久(1536-1612)が取り仕切る朝廷の中で名跡の継承を巡って論争があったものの,結局はこれを認めています.