世田谷城

世田谷にあります。豪徳寺の近くのお城です。

三河の吉良一族の親戚の武蔵吉良氏の居城です。武蔵吉良氏は足利一族であったので、鎌倉公方の御一家として扱われ世田谷御所として上杉氏からも後北条氏からも一目置かれました。

足利家3代目当主の足利義氏は母が北条時政の娘時子(北条政子の同母妹)であったこと、妻も鎌倉幕府第3代執権の北条泰時の娘であったこと、承久の乱での戦功などから三河国守護職となります。そして、庶長子の長氏に幡豆郡吉良荘を与えて吉良氏とします。吉良長氏は吉良西条を本拠地としたので西条吉良氏と呼ばれるようになります。長氏の子の満氏は霜月騒動で安達泰盛に与して討死。満氏の子の貞義が足利高氏がに鎌倉幕府倒幕を勧めた人物になります。

一方、足利義氏の四男・義継も庶長子の長氏と同じく吉良荘を本拠とします。こちらは吉良東条を拠点としたので東条吉良氏と呼ばれるようになります。東条吉良氏は1345(興国6)年に吉良貞家が奥州管領になったことを契機として吉良を去って奥州の多賀城を拠点とします。観応の擾乱では足利直義方として戦い同じ奥州管領の畠山国氏を滅ぼして単独の奥州管領に。その跡を吉良満家が継ぎます。吉良満家は畠山国氏の遺児国詮や足利直冬から奥州管領に任命された石塔義基らとの戦いを勝ち抜くものの、足利尊氏が奥州管領として斯波家兼を派遣したために、奥州管領は再び並列制となります。1356(正平11)年、吉良満家が亡くなると、子の持家が吉良家を継ぎます。しかし、家内は混乱し弟治家と叔父貞経との対立が起こります。

1367(正平22年/貞治6)年、吉良治家は室町幕府から追討を受け奥州から追放。同時期に吉良持家と貞経の消息も途絶えます。

一方、東条吉良にあった奥州管領吉良家の被官は奥州管領吉良満家が亡くなると、西条吉良満義・満貞父子が足利直義派として各地に転戦している間隙を突いて、西条吉良満義の子の尊義を擁立して足利尊氏派に転じます。以降、東条吉良家と西条吉良家は対立を繰り返していくことになります。

対して、本来の東条吉良家であった奥州吉良家は奥州でも振わなくなりますが、追放された吉良治家が初代鎌倉公方の足利基氏から招かれ、上野国飽間郷に所領を得たことで再び盛り返します。

以降、鎌倉公方の御一家としての扱いを受け、世田谷にも所領を得て、応永年間(1394-1426)頃に世田谷城を居館として整えたとされています。

吉良成高は世田谷の館を城郭として整備し、扇谷上杉家家宰・太田道灌とも結んで関東に独自の地位を確立しました。しかし、扇谷上杉定正(1443-1494)が太田道灌(1432-1486)を暗殺すると北条家に接近します。

1524(大永4)年、太田資高が北条氏綱に呼応して、扇谷上杉朝興の江戸城を攻め落とした前後に吉良家は北条氏綱に迎え入れられます。

吉良成高の子頼康(-1562)は北条氏綱(1487-1541)の娘と結婚し北条家の一門となります。この吉良頼康の代の1530(享禄3)年に扇谷上杉軍によって世田谷城が攻め落とされ、武蔵国久良岐郡の蒔田城に拠点を移しています。その後、1545(天文14)年に、扇谷上杉朝興の子の扇谷上杉朝定が河越夜戦によって討死し扇谷上杉家が断絶するまでの間に、世田谷城は北条軍によって奪還され吉良家に戻されています。

しかし、1590(天正18)年、吉良氏朝の代に小田原征伐で北条氏が豊臣秀吉に敗れると世田谷城は廃城となりました。