日宮城

北陸本線の小杉駅の周辺で何度か道に迷う。日宮社が鎮座する下条を「げじょう」と読む事を知らなかった事も迷った一因。

公民館らしき建物の前を通り過ぎそうになった際に日宮社の鳥居を発見。ようやく城址へと辿りついた。私の城址廻りには、この手が頻々である。

さて、この日宮(ひのみや)城は別名を二上山城といい、天正年間(1558-1592)に越中守護代である神保長職が増山城へと移る前に居城したと伝わる。現在の車道からは少し奥へと引いた地にあるが、北陸道を押さえる要害として知られていた。

神保氏と対立していた同じく越後守護代の椎名氏との争いが激しくなると、椎名氏を旗下に置いていた越後守護代長尾景虎が越中に侵攻し日宮城も落城の憂き目に遭っている。

神保長職は再び日宮城を奪還するが、武田信玄と組んだ椎名氏、越後守護代の上杉氏、更には一向一揆勢に囲まれて厳しい立場に置かれた。神保氏は情勢に独立を維持出来ず実質的に上杉方に傾いていった。

1572(元亀3)年には武田信玄と呼応した一向一揆衆が城に対して猛攻撃を開始。上杉謙信は城主の神保覚広の要請に応じて越中新庄城主鯵坂長実と山本寺定長を派遣するが一向一揆側に阻まれて日宮城に辿りつく事が出来ず落城した。

日宮城は、この時を最後にして歴史から姿を消した。

2011年8月21日訪問。

富山県内の古城廻り