東条城址

この城には雨の降りしきる中で訪れた。吉良吉田駅を下車した時はそれほどでは無かったが城址に近づくにつれて激しくなった。その激しさが城に着いた途端に止んだというのは何か不思議な心地がする。この城は鎌倉時代の1222(貞応元)年に足利義氏が三河守護に任じられて吉良荘地頭となった事を始まりとする。もっとも、吉良の東条の地に根を下ろしたのは足利義氏の三男である義継からという。この義継が吉良吉良氏の祖である。一方、義氏の長男である長氏は吉良庄西条を父親から受け継いだ。東条と西条は矢作川を挟んで対峙する位置にある。吉良氏は「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と呼ばれた名門であり、その一方の家が東条城を本拠としたのだ。この東条吉良の四代目の貞家は奥州管領となり、いわゆる武蔵吉良氏の祖となった。そして、東条吉良氏は西条吉良の満貞の弟である尊義が継ぐ。このように深い関係を持つ東条吉良氏と西条吉良氏であるが応仁の乱に際しては、10代義藤が山名宗全方に与し、細川勝元方の西条(西尾)吉良氏の吉良義眞と骨肉の争いを繰り広げた。

1561(永禄4)年、14代吉良義昭の代に松平元康によって攻め落とされた。吉良義昭は西条吉良の出身。当時、西条吉良氏の吉良義尭は織田信秀に与し、東条吉良の吉良持広は今川家、松平家に与していた。吉良持広は1535(天文4)年に岡崎城を追放された松平広忠を保護し、1536(天文5)年には家老の富永忠安の室城に招き入れ、翌年には岡崎城に復帰させている。

この時、1535(天文4)年には松平清康が織田信秀との戦いに出陣中、森山において、家臣の阿部正豊に暗殺される(森山崩れ)という事件が生じており、三河は大混乱となっていた。

この事態に際して、東条吉良持広が死の直前に東西両吉良家の和睦を願って、西条吉良義尭の次男である義安を養子とし、実子である吉良義次(西尾吉次)は織田家に人質に出した。吉良家の存亡の危機を回避するための策であったと言えよう。

そして、西条吉良を承継したのが吉良義昭である。ところが、1549(天文18)年、今川義元が安祥城主・織田信広を攻めた際に東条吉良の吉良義安は織田に加担。今川軍は吉良義安を捕えて駿府に連れ去った。そのため、西条吉良の吉良義昭が東条吉良をも併呑するに至った。

1560(永禄3)年に桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、徳川家康は今川家からの独立を目指す。この情勢の中で吉良義昭は徳川家康と対立。1561(永禄4)年に徳川家康によって落城した。吉良家が去った東条城には家康家臣の青野松平家より家茂が入り、東条松平家の祖となった。1590(天正18)年に徳川家康が関東へと移封となると東条城は廃城となった。

なお、吉良家は駿府で人質となっていた東条吉良義安が駿府で徳川家康と親しくしていた関係で復興される。

2008_0930_豊橋


三河の城館