豊後杵築城

大分は杵築にある古城。八坂川の河口の高台にあって三方を海に囲まれて、誠に堅牢なる城は木付頼直によって1394(明徳4)年に築かれた。

木付氏は大友氏の一族である。大友氏の2代目である親秀の六男親重が、1250(建長2)年に、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘を与えられて台山城を築城した。これが木付氏の始まりとされる。その城はいつの頃からか放棄され、親重は竹ノ尾城を新たに築城し本拠とした。台山城からいつ竹ノ尾城に移ったのかは分からないが、木付親重は1285(弘安8)年には竹ノ尾城にて息を引き取っている。

さて、肝心の杵築城であるが、これを築城した頼直は今川貞世の九州下向時、田原左近将監直平とともに先鋒を勤めたと伝わる猛者である。

誠に堅牢と言ったが、1586(天正14)年に九州の猛者である島津家久の豊後攻めの折に新納忠元の率いる軍勢が杵築城に攻め寄せた際に木付鎮直が城を最後まで守り抜き島津の軍勢を引かせたことでも証明されている。この時の島津軍は肥後の相良氏を負かし、肥前の龍造寺隆信を討ち取ったという勢いがあった。勢いに乗って島津軍は島津義弘が肥後路から3万騎を、島津家久が日向路から1万騎を率い、大友氏の豊後へと侵攻したのである。こういう大軍の一翼である新納軍を木付鎮直は2ヶ月も釘付けにした。成果は大いにあったという他ない。2ヶ月という時間は豊臣秀吉による援軍が豊後に入るには十分だった。

しかし、城は政治には打ち勝つことは出来なかった。1593(文禄2)年に朝鮮半島において明の大軍に包囲されて救援を求めた小西行長に対して、行長戦死という誤報を信じ、家臣である志賀親次の進言に従って撤退した大友義統が豊臣秀吉の逆鱗に触れてよって改易の憂き目に遭う。主家の改易に衝撃を受けた木付統直は関門海峡で入水自殺を遂げる。木付統直は大友義統に付き従っていたのである。更に加えて、統直は朝鮮の鳳山の戦いで嫡子直清を失っている。主家も失い、嫡子をも失った悲しみは如何ほどであったか。悲しみは続く、嫡子の自害を知った木付鎮直は妻である生地安清の娘とともに自害。ここに名門木付家は滅んだのである。

【豊後杵築城縄張図】