江馬氏館

岐阜県は飛騨地方の神岡にある室町時代から戦国時代にかけての豪族である江馬氏の館の址。

江馬という名から鎌倉北条一門を連想させる。しかし、定かなことは分からない。

江馬氏館と呼ばれている場所は高原諏訪城を詰城とする下館。現在は建物や庭園が復元されている。往時は復元されている範囲よりもずっと広かったらしい。案内をして下さった方曰く、道路の反対側の民家の裏側に館の水路などの痕跡が残されているという。

江馬氏は北飛騨一帯を治めるまでに勢力を張り、やがて、甲斐武田氏のバックアップを得て飛騨国司家である姉小路氏を脅かすまでになる。江馬時盛の代である。

武田信玄と上杉謙信との対立では地理的な位置から対上杉の前線としての役割を担った。

ところが、江馬時盛の嫡男の輝盛は上杉謙信と好みを通じ、1573(天正元)年、武田信玄病死を機会として、遂に父親を暗殺。信玄の旗本であった弟の信盛、従弟の洞城主の麻生野直盛、その子・慶盛ら主流派を討伐し江馬氏の実権を掌握。

1582(天正10)年には南飛騨で織田信長のバックアップの元、姉小路氏を凌いでいた三木自綱を討伐する軍旅を催す。

織田信長が本能寺の変で明智光秀に討ち取られたことを好機としての出陣であったが、吉城郡荒城川から小島城下に迫ったが、八日町において三木軍の将である牛丸親正・小島時光らによって逆に討ち取られてしまう。

江馬軍は総崩れとなり、勢いをかって小島時光は江馬氏の本拠である高原諏訪城をも攻めとり、ここに飛騨の名門である江馬氏は滅亡した。