用土城

藤田康邦(1513-1555)が、川越夜戦で上杉方が敗北した天文15年以降に北条氏邦を養子として受け入れ隠居した居館の跡。藤田康邦は山内上杉家に仕えていた。北条氏に家を譲った後に、藤田康邦の実子で沼田城代の藤田重連は氏邦によって毒殺。重連の弟の信吉(重信)は真田昌幸を通じて武田勝頼の家臣に転じた。信吉(重信)は武田家滅亡後、上杉景勝の家臣となる。

しかし、徳川家康と上杉家臣の直江兼続が対立すると親徳川派として徳川家康のもとへと走った。藤田家は武蔵七党猪股党の一族であり、鎌倉時代から続く名門であるが、多くの鎌倉武士団同様に波乱万丈の歴史だったと言える。信吉は1615(慶長20)年の大阪夏の陣において榊原康勝の軍に対する采配を巡って改易。鎌倉時代以来の名門の幕が閉じた。


参考:埼玉県の城館