山口城

幕末の1864(元治元)年に長州藩第13代藩主毛利敬親が山口に築いた城。幕末の動乱期において、藩創設時に幕府より許されなかった山口への遷都を敢行することで反幕の姿勢を明確にしたのが山口城の築城だった。

そもそも、大内氏の時代には山口が政治の中心地であったのであり、毛利氏にとってしてみれば山口に政庁を置くことは当然の事。

築城に先立つ1863(文久3)年、尊王攘夷運動が盛り上がりを見せる中、毛利敬親は萩から山口への遷都を実行。その直後、長州藩は馬関海峡を封鎖し、米仏蘭艦船に対して砲撃を加えた。これに対して、朝廷内の公武合体派の会津藩、薩摩藩は中川宮朝彦親王を擁して御所の警備を固め、尊王攘夷の急進派の三条実美らの禁足を命じる。続いて、朝議において長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰を決定。長州藩士は三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに京都を追放された(八月十八日の政変)。

京都を追放された長州藩は1864年に会津藩主・京都守護職松平容保の排除を掲げて京都にて福原元`、益田親施、国司親相の三家老、久坂玄瑞、来島又兵衛らが挙兵。蛤御門にて会津藩・桑名藩軍と衝突。一時は長州藩軍が優勢となるが薩摩藩軍が会津藩・桑名藩軍に加勢したことで形勢は逆転。来島又兵衛、久坂玄瑞は自刃し長州藩は敗北(7月19日)。7月21日、朝廷は幕府に長州征討を命令(第一次長州征討)。9月、幕府支持派である俗論派が長州藩内で勢力を拡大したため、尊王攘夷の正義派の周布政之助が自刃。形勢は幕府への恭順へと傾く。このように長州藩内が尊王攘夷派と幕府支持派との間で揺れ動いている最中の10月に築城されたのが山口城。

第一次長州征討は征長軍参謀格の西郷隆盛と周防岩国領主の吉川経幹との交渉によって、国司親相、益田親施、福原元`の三家老切腹、長州藩四参謀斬首、五卿追放で決着。この時、山口城の破却も征長軍撤兵の条件となり一部破却され藩庁は再び萩に一時的に戻った。

長州藩の敗戦後、高杉晋作は藩政を左右していた俗論派を斃すために1864年12月16日に功山寺において挙兵。クーデターは成功し逆に藩内の俗論派は一掃され、やがて第二次長州征討、そして倒幕へと繋がっていく。

こうした激しい歴史の波を目撃してきたのが山口城なのである。


参考:山口県の城館