築山館

大内氏館のすぐ近くにある築山館は大内氏第28代の大内教弘が築いた館。大内教弘は大内氏館を築いた大内弘世の子である大内盛見の子に当たる。兄の大内義弘は懐良親王を奉じる菊池武朝に大勝した戦功などにより周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護に任ぜられ大内家を大大名にまで押し上げた。

しかし、室町幕府第3代将軍足利義満は大内義弘の勢力拡大を恐れ、少弐貞頼討伐後の義弘に対して上洛命令を出す。ここに11カ国の守護を兼ね「六分の一殿」と呼ばれた山名時熙と従兄の氏之を山名一族の氏清と満幸に討たせた事例の二の舞を恐れた大内義弘は1399(応永6)年に和泉堺ノ浦に大軍を率いて上陸。鎌倉公方足利満兼や失脚していた今川了俊、土岐康行の乱で没落した土岐詮直などの勢力を糾合し足利義満に対して叛旗を翻す。世に言う応永の乱の勃発である。

大内義弘は5000の軍勢で堺に城砦を築き立て籠もる。これに対して、足利義満は細川頼元、赤松義則、畠山基国、畠山満家、斯波義将、斯波義重らを主力とする3万余の軍勢を派遣。最期には大内義弘は畠山満家に討ち取られた。

大内義弘に従っていた弟の大内弘茂は降伏。一方、同じく弟で国許に残っていた大内盛見は後継者として名乗りを上げる。大内盛見は、大内弘茂が周防・長門に戻ると一旦は豊後に引くも盛り返し1401(応永8)年に長門で弘茂を討ち取る。更に弘茂派の弟である道通も討ち取る。ここに至って室町幕府も大内盛見の大内家の家督承継を認めることとなる。大内盛見は筑前における少弐満貞や大友持直との戦いで1431(永享3)年に筑前深江で討死。家督は大内義弘の子の大内持世が承継した。その大内持世は1441(嘉吉元)年に赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いの場で室町幕府将軍足利義教が暗殺された場で重傷を負い死去。その跡を承継したのが大内盛見の子で大内持世の養嗣子であった教弘である。

大内教弘は安芸分国守護である武田信繁・信賢父子と対立し安芸へと侵攻。佐東銀山城と己斐城に攻めよせるが室町幕府の命令を奉じた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経によって退けられている。しかし、1461(寛正2)年に大内領であった東西条を室町幕府が武田氏に与えたことに反発し平賀弘宗・小早川盛景とともに安芸に侵攻。これを契機として安芸へと勢力圏を拡大させた。


参考:山口県の城館