大内氏館


2014年4月訪問

大内弘世が1360(正平15)年頃に父祖の地である大内御堀から移って本拠とした地。

大内氏は百済の聖明王の子である琳聖太子が日本に亡命し周防国多々良浜に上陸したことを始まりであると伝承している。

大内弘盛・満盛父子は御家人ではなかったものの、平氏追討の功により源頼朝から所領を安堵されている。時代は下って、大内弘貞の代には鎌倉御家人となっていたと思われる。その跡を弘家、重弘、弘幸と継いだ。しかし、1320(元応2)年頃には大内弘幸が惣領であったが実権は叔父で鷲頭氏の名跡を継いでいた長弘が握っていた。鷲頭氏は大内盛房の三男盛保が都濃郡鷲頭庄を領有したことに始まる一門。鷲頭盛保の嫡男である親盛に子が無かったため、盛親の娘である禅恵尼が宗家である大内重弘の弟である長弘を養子として迎えていた。

鎌倉幕府が倒されると、建武の新政で鷲頭長弘は周防守護に任ぜられた。

このように両家は対立していたが、観応の擾乱に際して足利直冬の勢力が中国地方を席捲すると鷲頭長弘、大内弘幸ともに足利直冬陣営に与する。そして、1352(文和元)年に大内弘幸の跡を弘世が承継。この大内弘世が大内氏館を建設した本人である。足利尊氏が南朝と和睦し正平一統が実現すると、大内弘幸・弘世父子が鷲頭氏への対抗のために東大寺領吉敷郡椹野庄に侵攻している。

1351(正平6)年に鷲頭長弘が亡くなると次男の弘直が足利尊氏陣営に帰順し周防守護職に任ぜられると、大内弘世は足利直冬陣営に転じ鷲頭氏領へと侵攻する。

一連の大内弘世による鷲頭氏領への侵攻によって弘直の弟の貞弘へと鷲頭氏の家督が移ると鷲頭氏は大内氏に従属するようになる。

大内弘世以降の歴代の大内氏の当主は大内館で政務をとり、この館は中国地方はもとより九州にまで及ぶ広大な大内氏領の政治の拠点となった。京都から戦乱を避けて公卿などが訪れたのも大内館である。


大内氏が豊後より運んだ豊後岩

1551(天文20)年に第31代大内義隆は陶晴賢の叛乱により滅ぶに至って大内館は放棄された。その後、陶晴賢を討ち破って大内氏領を併呑した毛利氏によって、1557(弘治3)年に大内義隆の菩提を弔うために、大内館址に龍福寺が建立され現代に至っている。


大内義隆主従供養塔


西門

上の写真の西門は大きさから考えて屋敷の正門ではなく屋敷内の内門であったと考えられている。


土塁


参考:山口県の城館