菅谷館

埼玉県は嵐山にある鎌倉武士の代表格・畠山氏の館址。畠山氏と言えば鎌倉幕府創設の有力者である畠山重忠。源頼朝、頼家、実朝と源氏三代の将軍に仕えた。

しかし、その人望と実力に脅威を覚えた執権・北条時政によって謀殺されてしまう。鎌倉で一大事の報せを受けた重忠の子・重保は少人数で通りに出た所を北条時政の軍勢に取り囲まれ、善戦するも由比ヶ浜で命を落とした。

息子の死を知らない重忠も菅谷館をわずか130騎だけで鎌倉を目指した。途中、現在の横浜の二俣川に差し掛かったところで、北条時政の命を受けた稲毛氏の軍勢に包囲され、息子の死を知る。

菅谷に戻れば北条が集めるよりも遥かに多くの軍勢を集めることが出来る。しかし、戻って篭城すれば謀反の疑いを掛けられるとして、130騎で大軍勢に立ち向かい、壮絶なる討死をした。

畠山重忠は生きて再び菅谷館に戻ってくることはなかった。しかし、菅谷館は現在においても本廓、二の廓、三の廓と、それらを取り囲む土塁や空堀をそのままに重忠の帰りを待っている。

もっとも、その姿は鎌倉時代の畠山重忠の時代の全くそのままという訳ではなく、戦国時代に手が加えられている。


参考:埼玉県の城館