大津宰判勘場

長州藩は1650(慶安3)年に18の宰判という行政機関を設けた。

裁判所の語源となった「宰判」というのは、明治時代の初期に設置された「裁判所」というのが地方行政機関を意味したように、萩藩における地方行政官庁あるいは地方行政区分のことを意味していた。

正確には、地方行政区域である各宰判に設置された行政機関のほうは勘場と呼ばれていた。

この「宰判」は「裁判」とも言われた。

そもそも、宰というのは「みこともち」と読み、大化の改新以後に地方に派遣された行政官のことを意味した。大宰府の「宰」は、これに由来する。また、判官(ほうがん)は衛府の尉で、検非違使のことを意味する。そして、古くは「裁判」「宰判」というと政務を意味した。こうしたことから、「宰判」とは、もともとは支配するという意味であり、戦国時代から用いられてきた言葉が支配する区域そのものを指すようになったのだという。 萩藩では慶安3(1650)年に18の宰判を設けている。

 先大津宰判、長府宰判、清末宰判、前大津宰判、吉田宰判、舟木宰判、浜崎宰判、美祢宰判、小郡宰判、山口宰判、当島宰判、奥阿武宰判、徳地宰判、三田尻宰判、徳山宰判、前山宰判、熊毛宰判、都濃宰判、大島宰判、奥山宰判、上関宰判がそれである。

 明治3(1870)年に萩藩の脱走兵が現在の島根県大田市大森にある大森県浜田宰判所を襲撃し、明治政府により鎮圧されているが、ここでいう宰判所は地方行政機関のことを意味している。


山口県の城館