勝山城

1378(永和4)年に大内氏家臣の永富嗣光が築城したと伝えられる。

1521(大永元)年には同じく大内氏家臣で長門守護代の内藤興盛が城主となっている。

内藤興盛の後は子の内藤隆時が早世していたため、孫の内藤隆世が家督を承継。1551(天文20)年に、陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)し大内義隆が長門にて自刃の後も大友氏から迎えた大内義長を陶晴賢とともに支えた。大寧寺の変では陶晴賢と行動を共にした豊前守護代杉重矩は変において公卿をも殺害した事を悔み陶晴賢と距離を置くようになる。もともと豊前守護代杉重矩は大内義隆に陶晴賢の討伐を進言していた背景もあった。これに対して、陶晴賢は杉重矩を長門にて攻め滅ぼした。

しかし、1555(弘治元)年、厳島の戦いで毛利元就により陶晴賢は滅ぼされる。その直後、杉重矩の子重輔が陶晴賢の居城である富田若山城を突如攻めて晴賢の嫡男陶長房や石見守護代問田隆盛を攻め滅ぼした。内藤隆世は厳島の戦いには参戦しなかったが、杉重輔の行動に激怒し討伐軍を編成。内藤・杉両軍は山口で激突。結局、杉重輔は防府で討死する(1556)。この時、内藤興盛の子の内藤隆春は姉尾崎局が毛利元就の嫡男隆元の正室であった関係から内藤隆世とは距離を置いた。

この大内氏の内紛の間、毛利元就は周防・長門両国への侵攻を進める(防長経略)。これに対して、内藤隆世は大内義長に勧めて高嶺城を大内氏館の背後に築城し毛利元就の侵攻に備えた。

毛利元就は山口に侵攻。山口では防ぎきれないと悟った内藤隆世は大内義長とともに、自らの本拠地である長府の勝山城へと落ち延びた。毛利元就は重臣福原貞俊に命じて5000の兵を率いさせ大内義長を追討。更に、大内義長の実家である大友氏の侵攻を阻止するために小早川水軍を率いる浦宗勝に関門海峡を封鎖させる。

とはいえ、勝山城は堅城であり福原軍は攻めあぐねた。福原貞俊は内藤隆世の命と引き換えに、傀儡である大内義長の助命を提案。大内軍はこれを受け入れ内藤隆世が自刃。

大内義長は勝山城を明け渡して功山寺に入った。ところが、福原貞俊は功山寺を軍勢で包囲し自刃を迫る。追い詰められた大内義長は自刃。ここに中国の名門大名である大内氏の血脈は途絶えた。


功山寺にある大内義長の墓


功山寺


山口県の城館