引間城

『宗長手記』に名前が出てくる吉良氏家臣の巨海新左衛門による築城と考えられる古城。浜松城のすぐ近くにある。

もっとも、この城が歴史上に登場するのは、吉良氏配下の時代よりも今川氏親の時代になってから。1494(明応3)年に今川氏親は遠江に侵攻。引間城も今川氏親の猛攻に晒される。更に、1501(元亀元)年から1503(元亀3)年に掛けては斯波氏に対する今川氏の攻撃は激しさを増し浜名湖周辺は今川氏が制圧する事態となる。

遂には、1516(永正13)年、斯波氏家臣である引間城主大河内貞綱は今川氏の前に滅亡。引間城は今川氏の勢力圏下に置かれた。今川氏親は飯尾賢連を城主とし、後に飯尾乗連、飯尾連竜が城主の座を引き継いだ。

1560(永禄3)年に尾張に侵攻した今川義元が桶狭間にて織田信長によって討たれる。これを機会に今川家の支配から逃れた三河の松平元康(徳川家康)が隣国の遠江に侵攻。引間城主の飯尾連竜も、これに呼応。これに対して、今川氏真による攻撃に晒される。1563(永禄6)年と1564(永禄7)年の攻撃は防ぎ和睦となったものの、1565(永禄8)年に飯尾連竜は駿府にて暗殺される。引馬城は江馬安芸守泰顕と江馬加賀守時成の両人が城代として守る。

1568(永禄11)年に引間城内にて内紛が勃発すると、徳川家康は酒井忠次に出兵を命じ城を陥落させた。1570(元亀元)年以降、浜松城の築城が開始されると引間城は浜松城の中に取り込まれた。


静岡県の城館