長尾城

横浜市栄区の長尾台は上杉謙信へと繋がる長尾氏の発祥の地。1980(昭和55)年に行われた横浜市埋蔵文化財調査委員会の発掘調査によっても縄文時代から中世に掛けての遺物が発見されている。

長尾氏は源八幡太郎義家に従って後三年の役で活躍したことで知られる鎌倉権五郎景政の子孫。鎌倉権五郎景政の子孫は長江、板倉、安積、只野、香川、古屋、梶原、大庭、長尾などに別れ鎌倉党と呼ばれていた。いわゆる坂東八平氏の一つである。

1180(治承4)年に源頼朝が挙兵した石橋山合戦で、長尾定景は頼朝の寵臣で三浦党の佐奈田義忠を討ち取ったことで知られるように平家方であった。頼朝に降伏後は佐奈田義忠の実父の岡崎義実(三浦義明の弟)に預けられた。岡崎義実は長尾定景を殺そうとしたところ、長尾定景が法華経を唱えるのを目にし、一転して、頼朝に助命嘆願をなした。

このため、長尾定景は三浦氏の家臣となる。

1219(建保7)年に3代将軍源実朝を殺害した公暁を、三浦義村の命によって討ち取ったのも長尾定景である。

しかし、1247(宝治元)年に執権・北条時頼と安達景盛の挑発によって挙兵すると定景の子・景茂ら一族は三浦氏とともに法華堂にて自刃。鎌倉長尾氏はここに滅亡した。

しかし、景茂と葛西時清の娘との間の子・四郎景忠は生き残った。その四郎景忠の子・景基の時に上杉藤成の外祖父として上杉家の配下に加わった。

この流れが、白井・総社長尾氏、足利長尾氏、越後長尾氏(上田長尾、古志長尾、府中長尾)を産み、越後長尾氏は戦国大名となっていった。


鎌倉/2006_04_22


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