大庭城

大庭氏は坂東八平氏のひとつで鎌倉氏の一族。鎌倉は好きなので何度も足を運んでいる。しかし、鎌倉党の有力一族の大庭氏ゆかりの史跡を今まで尋ねたことは無かった。9月の最初の連休で愛知県の蒲郡で海と温泉を堪能した際に深溝に立ち寄った。この深溝の地こそ、鎌倉党の大庭氏の末裔ゆかりの場所でもある。

1465(寛正6)年に、吉良氏の元被官であった大場次郎左衛門、丸山中務入道父子、梁田左京亮らが井口砦で蜂起。額田郡一揆と呼ばれる戦乱の勃発で三河は混乱。三河を治めていた東条、西条の両吉良家の権威は失墜。

事態を重く見た室町幕府は松平氏、戸田氏、今川氏に一揆勢の鎮圧を命じ、ようやく乱は終息した。

この額田郡一揆の主力であった大庭次郎左衛門らの大庭氏は、長満寺縁起によれば、1332(正慶元)年に大庭朝泰が深溝に移住してきたのが始まりという。1350(観応元)年の額田郡一揆交名に大庭弥平太氏景の名が見えるが、その弥「平」太氏「景」という名から鎌倉党大庭氏の末裔であることが伺える。既に足利尊氏が三河守護であった頃には足利の被官であったことが知られている。更には、大庭景親の末裔である大場氏が東条吉良氏の重臣であったことも知られている。

ともあれ、深溝城を居城とした三河大場氏は松平信光親子によって討伐された。

さて、ここで鎌倉党の大庭氏のことである。

源義家に従って後三年の役を戦った際に右目を射られながらも戦い抜いた逸話を持つ鎌倉景政が1116(永久4)年に大場御厨を開発し、子孫が下司職を相続して大庭氏を名乗ったことが始まりとされる。鎌倉景政は源義家の郎党ではあったが、当時、朝廷によって源義家への荘園の寄進が禁止されていたために、大庭御厨は源氏ではなく伊勢神宮に寄進された。

そうした経緯があった為もあったのだろう。源義家の孫で、鎌倉に居を構えていた源義朝は、1144(天養元)年、大庭御厨の廃止を宣言。清原安行、三浦義継、三浦義明、中村宗平、和田助弘らを率いて大庭景宗が下司を務める大庭御厨に乱入を繰り返した。

この事件を契機として大庭氏は再び源氏の郎党に復帰。後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱では、大庭景義、景親兄弟が源義朝の旗下で闘っている。その際、大庭景義は源為朝の矢に当たって負傷。歩行困難となったために、家督を弟の景親に譲り、懐島に隠棲した。

平清盛と源義朝が争った平治の乱では大庭景親兄弟は在京せず戦いに加わらなかった。源義朝が討たれると、大庭兄弟は平家の被官となり、大庭景親は駿河国府を影響下に置くに至っている。

源義朝の子の源頼朝が伊豆で挙兵すると大庭景親は平家方として源頼朝の追討軍を発する。この時、懐島に隠棲していた大庭(懐島)景親は弟と行動を伴にせず源頼朝の陣営に馳せ参じた。

この事が大庭兄弟の命運を分けた。源頼朝が鎌倉に入るに及んで大庭景親は捕えられ処刑。大庭(懐島)景義が大庭氏の家督を再び承継した。


2013.09.21

その大庭氏も、三浦氏一族の和田義盛が二代執権・北条義時に叛旗を翻した和田合戦(1213)において、大庭景義の子の大庭景兼が和田方として参戦。敗戦後は筑後に落ち延びたと考えられている。

相模に残っていた大庭一族も、三浦泰村・光村兄弟が第5代執権・北条時頼、安達景盛に叛旗を翻した宝治合戦(1247)において壊滅。但し、大庭景連は備後新庄の地頭職として早くから相模を離れていたために助かったいる。


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