道灌山城

JR山手線の西日暮里駅の目の前にある道灌山。

この道灌山は扇谷上杉氏の家宰にして江戸城の築城者として知られる太田道潅が豊島氏への備えとして城を築いた場所という伝承を持つ。道灌山は上野から飛鳥山へと続く台地の上にある。

飛鳥山と言えば、豊島氏の拠点である平塚城が近くにあったと考えられている。平塚神社から飛鳥山に掛けての範囲内に平塚城があったと見られているのだが、いづれにしても、道灌山からは直ぐ近く。

太田道潅が江戸城を築城して勢力圏を拡げていた時期は豊島氏は鎌倉幕府草創時の勢いはなかった。

後に、豊島氏は太田道潅によって滅ぼされることになる。それにしても、この道灌山に太田道潅が築城していたとすれば、豊島氏をじりじりと追い詰めていたということになろう。

もっとも、この地は鎌倉時代に、江戸重長の舅で、武蔵国久米川を領有していた関小次郎長耀(道閑入道)が屋敷を構えた地とも伝わっている。

どちらが本当ということではなく、要衝地であるが故に、鎌倉時代に関道閑入道が屋敷を構えた地に、室町時代になって太田道灌が城を築いたということなのかもしれない。

ちなみに、江戸氏は豊島氏と同じく秩父氏の一族。1261(弘長元)年10月3日に、江戸長重が現在の江戸城周辺に当たる江戸郷前島村を正嘉の飢饉を理由として北条得宗家に寄進し得宗被官となっている。

その後、得宗家から鎌倉円覚寺に寄進されている。

つまり、太田道潅が、かつての江戸氏館を江戸城とした際には江戸氏は江戸郷を支配していなかった可能性が高い。

すると、かつて同族である江戸氏が支配していた地に同族ではない太田道潅が進出したということであり、豊島氏にとっては脅威だったことだろう。


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