稲付城

東京北区赤羽西にある静勝寺境内は太田道灌(1432-1486)が築城したと伝わる稲付城のあった場所。

太田道灌は扇谷上杉家の家宰であり、古江戸城を築城したことでも知られている。太田道灌は築城の名手であり、かつ、上杉家の本家に当たる関東管領・山内上杉家からの信頼も厚かったために、活躍の場は関東全域にわたっていた。そのために、伝承地も含めて、関東には多くの太田道灌ゆかりの城址が残されている。

稲付城は両上杉家と対立していた古河公方および房総千葉氏に備えるために、江戸城、岩附城を築城し、両城の中継基地として稲付城を築城したという。この辺りは室町時代には交通の要衝であり関が設けられていた。軍事上の中継基地としては相応しい場所だったのだ。

1987(昭和62)年に発掘調査が行われ、永禄年間(1558-1569)末から1582(天正10)年頃に普請された空堀が確認されている。太田道灌が活躍した時代ではなく戦国時代。

太田道灌が主君・扇谷上杉定正によって糟屋の上杉館にて暗殺された後は、稲付城は孫・資高(1498-1547)が城主を務めた。太田資高は北条氏綱に通じ、江戸城主・扇谷上杉朝興から江戸城を奪っている。

その後は康資(1531-1581)が家督を承継。康資は北条氏の家臣となり岩淵郷五ヶ村を領した。また、富永直勝、遠山綱景とともに、父が奪還した江戸城の城代にもなっている。

しかし、かつて関東にその名を轟かせた道灌の子孫に相応しい扱いを受けていなかったことから、同族の岩附城主・太田資正の誘いを受けて上杉謙信に与した。

結果、北条氏に追われ岩附城に逃れた。この時に稲付城も放棄されたのだろう。

これに対して、上杉謙信が太田康資と資正との救出を里見義堯に要請。要請を受けた里見氏は北条氏の傘下にあった千葉氏の重臣・小金城主・高城胤吉の守る国府台城を奪取。

ここに、第二次国府台合戦(1563[永禄6])が勃発する。この戦いで、富永直勝、遠山綱景の両江戸城代は討死するも、北条方は里見軍の主力であった土岐為頼の諜略に成功し、里見軍を率いた里見義堯の嫡男義弘は命からがら戦場を離脱した。

太田康資は里見氏の客将となり安房で客死した。なお、水戸徳川家初代の徳川頼房の養母である英勝院(1578-1642)は太田康資の娘とも言われている。諸説があるが、英勝院は、1634(寛永11)年に、徳川家光から、太田道灌の屋敷のあった鎌倉の扇谷の地を拝領し、英勝寺を建立している。

現在の静勝寺を確立したのは英勝院の兄・太田重正の子で初代掛川藩主・太田資宗で1655(明暦元)年のこと。それまでは道灌寺と呼ばれていたという。


東京23区の城館