安倍館址

岩手県は盛岡市にある東北の雄・安倍氏の居館の址。自動車で住所を頼りに赴いた。神社が鎮座していて、周囲は深い空堀があるなど、これぞ中世城館の址とい景観。

しかし、神社には何の案内板もない。加えて、周囲にも案内板らしきものはない。そうなってくると、目の前の景観は、それらしく見えるだけではないのかと、不安になってくる。

案内してくれたのは地元の方。ここで間違えないという。

但し、もちろんというべきか、城館に詳しい方ではない。一度、空堀に囲まれた一画を出て前の道をゆっくりと巡る。すると、はっきりと、安倍館址という標識がある。

ここは、奥六郡の俘囚の長・安倍氏が拠点とした場所。安倍頼良(頼時)は厨川柵など築き大和朝廷側に対抗。これに対して、1051年に陸奥国司藤原登任が秋田城介・平繁成とともに玉造郡鬼切部で安倍軍と軍事衝突。

しかし、陸奥守藤原登任(987-)は敗北し帰京。事態を重く見た朝廷は源頼義(988-1075)を陸奥守として派遣。直後に後冷泉天皇の祖母・上東門院(藤原彰子)の病気快癒祈願のための大赦によって安倍頼良(頼時)は赦免され事態は収まったかに見えた。事件の勃発は鎮守府将軍となっていた源頼義の陸奥守の任期が切れる直前だった。在庁官人の藤原光貞と安倍貞任との間の抗争を契機として再び戦火が上がった。

この時、安倍頼時の娘婿だった藤原経清(-1062)は源頼義の旗下であったが、安倍軍への通謀を疑われたため安倍方へと寝返っている。互角の戦いが繰り広げられる中、源頼義は配下の気仙郡司で安倍貞任の舅でもある金為時(1017-1088)に津軽俘囚・安倍富忠らを調略。一族を引きとどめるべく津軽に向かった安倍頼時は安倍富忠の襲撃を受けて討死する。

これで戦いが終焉した訳ではなく、安倍頼時の跡は安倍貞任が指揮を執り戦いは継続された。

安倍貞任は4000の兵を率いて冬の黄海で2000の源頼義軍と激突。源頼義は藤原登任の二の舞となり、佐伯経範、藤原景季、和気致輔、紀為清らを失い、たったの7騎で落ち延びた。

ここで帰京していれば河内源氏は武門の棟梁とは仰がれなかったろうし、後の鎌倉幕府も無かったろう。

朝廷からの追加支援に加えて源頼義は自らの力によって関東・東海などから武士団を募った。

これに加えて、1062年に出羽仙北の俘囚の族長・清原光頼の調略に成功。形勢は一気に逆転する。兵力を1万に拡大させた源頼義は安倍氏の前線基地であった厨川柵、嫗戸柵を落とし、遂に安倍館を陥落させた。

安倍貞任は深手を負って捕縛され死亡。源頼義を裏切った藤原経清は捕縛の後、見せしめのために、錆びた刀で鋸挽き斬首に処せられた。安倍貞任の弟・宗任は一命を助けられ伊予国へと配流。

一方、清原武則は鎮守府将軍に任命され安倍氏に代わって新たな東北の覇者となったが、源頼義は陸奥守ではなく伊予守に任ぜられた。


東北の城館