堂崎城址

鎌倉時代初期以来、天草氏の一族である長島氏の居城。長島氏は長島に本拠地を定めてから長島を称した。長島氏は南北朝時代には天草八氏の一つとされた。

現在、長島は熊本ではなく鹿児島であるが、南北朝時代は天草の内に数えられ肥後、つまり、熊本に属していた。それが、1554(天文23)年、長島但馬守鎮真の時代に人吉の相良氏の圧迫を受け薩州島津家を頼って城を落ちた。

長島氏無き後の堂崎城には、本渡城城主天草尚種の弟である天草越前正が入った。

しかし、長島鎮真を庇護下に置いた薩州島津家6代当主・島津義虎の命を受けた叔父の島津常陸守忠兼が家臣の吉満久張らとともに堂崎城を攻城。長島と獅子島を薩州島津家の版図とした。これが長島が熊本ではなく鹿児島に属することになった所以。

堂崎城には島津常陸守忠兼が城主として入り長島を統治した。しかし、天草越前守の旧臣による讒訴によって島津常陸守忠兼は島津義虎に謀殺された。

城址に鎮座する若宮神社は島津忠兼を祀っている。


九州の城館