小山氏館(神鳥谷曲輪)址


2013年6月22日

当主事績
1150年頃太田政光藤原秀郷の直系子孫である太田行政の子。下野国小山荘を本拠とする。
1180(治承4)年太田政光・朝政父子は大番役として在京。小山にあった政光妻であり源頼朝の乳母の一人であった寒河尼が子の朝光を伴って房総の源頼朝を訪問。
1183(寿永2)年小山朝政源為義の三男で常陸国志田を本拠としていた志田義広(-1184)が藤姓足利氏の足利俊綱・忠綱父子と鎌倉討伐の兵を挙げる。小山朝政は偽計をもって下野国野木宮にて志田義広軍を急襲。源範頼、結城朝光、長沼宗政、佐野基綱が小山軍に合流し志田・足利連合軍を打ち破った(野木宮合戦)。
1185(元暦元)年源範頼とともに周防国から豊後国に渡り平家軍と干戈を交える。壇ノ浦の戦いにも参戦。
1189(文治5)年源頼朝が奥州の藤原泰衡を討つために鎌倉から進軍。小山朝政も従う。
1199(正治元)年小山朝政、播磨守護に補任される。
1201(建仁元)年京都大番役で在京中、三条東洞院宿舎を越後平氏の城長茂の襲撃を受ける。城長茂は平家政権滅亡後は梶原景時に預けられた後に御家人に列していた。しかし、梶原景時が小山朝政らによって糾弾され討伐されると、後鳥羽上皇に鎌倉討伐の勅許を得るべく挙兵に及んだ。
小山朝長
小山長村第2代執権・北条義時と伊賀の方の子で金沢流北条氏の祖である北条実泰の娘を妻とする。その娘は第5代執権・北条時頼の庶長子である北条時輔の妻となっている。北条時輔は二月騒動で弟の第8代執権・北条時宗によって討伐された。
小山時長
小山宗長
1333(元弘元)年小山貞朝新田義貞が倒幕の挙兵。小山貞朝も新田・足利連合軍に加わるが相模国にて討死。
1335年小山秀朝北条時行が中先代の乱で鎌倉に攻め入るべく挙兵し進撃。足利軍にあった小山秀朝は府中の戦線にて討死。
1335年小山朝氏小山秀朝の戦死により子の常犬丸(朝氏)が家督と守護職を承継。小山大後家の後見を受ける。
1337(建武4)年小山朝氏北畠顕家によって小山城が占領され小山朝氏は捕虜となる。後、南朝軍の同族である結城宗広の懇願によって小山朝氏は助命される。以降、朝氏は南朝軍に、朝氏の弟の氏政は北朝軍に別れ抗争を繰り広げる。


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