臼井城址

利根川に接続する印旛沼を望める地に築かれているのが臼井城。

この城を築いたのは千葉氏一族の臼井氏。

1455(享徳3)年に、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺。上杉憲忠の弟の房顕は関東管領に就任後、従兄弟である越後守護房定とともに上野平井城に籠城。ここに享徳の乱が勃発した。

山内上杉家家宰の長尾景仲は分倍河原における戦いで足利成氏に敗北。長尾景仲は室町幕府8代将軍足利義政に支援を要請。足利義政は足利成氏を討伐するため、駿河守護今川範忠を派遣。今川範忠は鎌倉を占拠。このため、足利成氏は鎌倉に戻ることが出来ず、古河に本拠地を移した。以降、利根川を境に東側は鎌倉公方(古河公方)方、西側は上杉方に別れて関東は大乱となった。

この時、千葉氏第16代当主の千葉胤直(1419-1455)が子である第18代当主胤宣(1445-1455)を後見していた。また、千葉家中では原氏と円城寺氏が筆頭家老の地位と千田庄・八幡庄内の領地を争っていた。そのような中で、足利成氏と山内・扇谷上杉氏の双方から援軍要請が飛び込んでくる。千葉胤直は円城寺尚任の助言に基づき両上杉氏とともに足利成氏討伐のための挙兵をする。

これに不満を持つ原胤房(-1471)は千葉胤直・胤宣父子を千葉城に攻め追放。千葉氏第14代当主満胤の子である馬加康胤(1398-1456)を千葉氏当主として擁立。原・馬加軍は志摩城、多古城を攻め胤直・胤宣父子と円城寺尚任を敗死させる。胤直の弟の胤賢(-1455)は2人の息子実胤・自胤とともに脱出し小堤城に籠るも落城し自刃。

実胤・自胤は更に市河城に逃れた。室町幕府は千葉一族の美濃篠脇城主・東常縁(1401-1488)を派遣。東常縁は馬加に攻め入り、原康胤を小弓に、馬加康胤を千葉に後退させた。しかし、市河城は、足利成氏の派遣した簗田持助によって落城。以降、実胤・自胤はは扇谷上杉氏の庇護下に置かれる。

その後、馬加康胤は上総八幡で討ち取られ、原康胤も小弓城落城(1471)で討死。

京都で応仁の乱が勃発すると東常縁は美濃に帰国(1469)。

下総に権力の空白が生じる。そして、馬加康胤の子の岩橋輔胤(1421-1492)が佐倉にあって千葉宗家を承継することになった。

1476(文明8)年に長尾景春が山内上杉家の家宰の地位が叔父の忠景にわたった不満から山内上杉顕定に叛旗を翻し足利成氏や岩橋輔胤の子の千葉孝胤の支援を受けて山内上杉顕定を上野国に駆逐。これに対して、相模の扇谷上杉家の家宰の太田道灌が長尾景春の占拠する武蔵国に侵攻。加えて、太田道灌は対立していた足利成氏と和議を結ぶことで、長尾景春を追い詰め、鉢形城を落城させ長尾景春を追放した。

この間、1478(文明10)年には、太田道灌は小金城近くまで進撃。境根原で岩橋輔胤の子の千葉孝胤を破り臼井城まで撤退させた。続いて、臼井城を包囲し太田道灌の弟の図書助の討死という代償を払うも臼井城は上杉方によって制圧された。もっとも、房総武士団の千葉孝胤への支持は堅く上杉勢が引くと千葉孝胤が失地を回復する事の繰り返しとなり、結局は臼井城も千葉孝胤の家老である原氏の支配下となっていく。

その後、太田道灌が主君の扇谷上杉定正によって暗殺。これを契機に長尾景春は扇谷上杉定正に加勢し山内上杉顕定と干戈を交える(長享の乱)。扇谷上杉定正は駿河今川氏客将の興国寺城城主・伊勢宗瑞の援軍も得て三度に及ぶ合戦で山内上杉顕定を破る。ところが、鉢形城の上杉顕定を討つべく荒川を渡河中に落馬して落命。上杉朝良が扇谷上杉家の家督を承継。立河原の戦いで上杉朝良・今川氏親・北条早雲連合軍と上杉顕定・足利政氏連合軍が激突。ここでも扇谷上杉が勝利し上杉顕定は潰走。兄の敗戦を知った越後守護の上杉房能は守護代長尾能景を鉢形城に派遣し扇谷上杉家の河越城に猛攻を加えた。そして、遂には、河越城を落城させ、扇谷上杉家と山内上杉家を和睦させた(1505年)。

この和睦に際して、古河公方足利政氏は弟の四郎を上杉顕実として山内上杉顕定の養子に入れた。

長尾能景は越中の戦いで討死。越後守護代の地位は子の長尾為景が承継。為景は父の死は越後守護の上杉顕定が援軍を送らなかったことが原因と考えていた。長尾為景は房能の養子の上条上杉定実を擁立して上杉房能を天水越に追い詰め自刃させた(1507年)。山内上杉顕定は弟を殺された報復のため、1509(永正6)年に関東の大軍を率いて越後に討ち入る。長尾為景は一旦は佐渡島に落ち延びるが高梨政盛の援軍を得て逆に山内上杉顕定を敗死させる。

山内上杉顕定の死によって養子の顕実と、同じく養子で上杉憲実の子の憲房が対立。上杉顕実は実兄の古河公方・足利政氏に、上杉憲房は古河公方・足利政氏の子の足利高基に援軍を求めた(永正の乱)。この時、足利政氏の次男の義明も上総国真里谷武田氏五代当主の真里谷信清に小弓に迎えられ小弓公方として離反。小弓の地は千葉氏家臣の原氏が城主を務めていたが1517(永正14)年に足利義明に敗れて失っている。原胤清は小金にあった重臣の高城胤吉に庇護された。この事件を契機として千葉氏は里見氏らへの対抗策として北条氏と同盟関係に入っている。山内上杉氏の家督争いで、結局は上杉顕実は敗れ、古河公方・足利政氏は高基に公方の地位を譲る。

小弓公方足利義明は真里谷武田氏の他に里見氏にも擁立され、古河公方と争うようになる。背景には千葉氏と真里谷武田氏・里見氏の東京湾岸の支配権を巡る対立がある。更に、北条氏綱(1487-1541)が江戸城、葛西城を支配下に収め東京湾の支配権を拡げていた。

1537(天文6)年、北条氏綱は扇谷上杉朝定の河越城を攻略し北条綱成を城代とした。1545(天文14)年に北条氏綱が亡くなると、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定と河越城を奪還すべく、古河公方足利晴氏、駿河守護の今川義元と連合して河越城を包囲。これに対して、北条氏康は少数の直臣を率いて小田原から河越に電撃進軍。河越の夜戦を仕掛け大軍である両上杉軍を壊滅させた。この戦いで扇谷上杉朝定は討死。山内上杉憲政は命からがら平井城に逃げ帰り、古河公方足利晴氏も居城に逃れた。

1552(天文21)年に、山内上杉憲政は平井城も北条氏に奪われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びていった。一方、古河公方足利晴氏は北条氏によって幽閉。北条氏は晴氏の子の義氏を葛西城にて元服させ古河公方として擁立。

山内上杉憲政から関東管領と山内上杉家の家督を譲られた長尾景虎は上杉謙信となり、以降、度々、関東に進軍を繰り返した。1563(永禄6)年、江戸城の守将であった太田康資が北条氏康への不満から、同族の太田資正を通じて上杉家に寝返り失敗。太田康資は資正のもとへ走った。上杉謙信から太田康資の救出の要請を受けた里見義弘は千葉氏支配下の国府台城を奪還し進軍のための陣を布いた。これに対して、千葉富胤は千葉氏の軍勢だけでの国府台城攻めは困難と判断し北条氏康に援軍を求めた。ここに第2次国府台合戦が勃発する。

江戸城将として太田康資の同僚であった遠山綱景・富永直勝は責任を感じて本隊の北条綱成隊に先んじて矢切りの渡しを渡り里見軍と交戦。逆に討ち取られる。ところが、北条綱成率いる本隊による渡河夜襲によって里見義弘は壊滅。北条軍は一気に上総まで進出して版図を拡大させた。

その後の1566(永禄9)年、臼井城は上杉謙信の軍勢の猛攻に晒される。ところが、上杉軍は臼井城を落とすどころか大敗北を喫し、以降、上杉謙信は南関東への進撃すら叶わなくなった。

この堅固な城も、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐時に開城。徳川家康の関東入封に伴って徳川家重臣の酒井家次が城主となり1604(慶長9)に上野国高崎5万石への転封まで城主を務めた。

土井利勝が1610(慶長15)年に佐倉城を築城すると城としての役割に幕を下ろした。


2013年5月18日訪問


千葉県の城館