勝瑞城館

徳島県板野郡藍住町勝瑞にある阿波国守護細川氏および三好氏ゆかりの城館。

承久の乱の後、阿波国守護になった小笠原長清が、この地に守護所を置いたとの伝承もあるが定かではない。

南北朝の動乱期に、足利尊氏は北畠顕家の軍によって京都を追われ九州へと落ち延びた。九州への途上、足利尊氏は播磨の室の津で軍議を開き、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟と、その従兄弟にあたる顕氏・定禅・直俊・皇海の四兄弟の細川一族七人を四国に配した。これが、細川氏が四国を統治する始まりとなった。但し、この時点でも勝瑞城館は拠点とはされていない。

九州に逃れた足利尊氏は多々良浜の合戦で後醍醐天皇方の菊池氏を破り上洛を開始。1336(建武3)年には、湊川の戦いで楠木正成・正季兄弟を自刃に追い込み入洛。直ちに、光厳上皇の弟である豊仁親王を光明天皇として即位させ、自らを鎌倉殿と称し室町幕府を開いた。

京都にあって足利尊氏を補佐する細川和氏は阿波を弟・頼春に、淡路を弟・師氏に任せた。細川頼春が七条大宮の戦いで南朝方と戦い討死すると頼之は阿波守護に任じられた。

讃岐守護は細川顕氏から繁氏に承継されるも繁氏が急死。讃岐は守護不在となる。

続いて、頼之とは従兄弟の関係であり第2代将軍・足利義詮の執事の細川清氏が佐々木道誉の讒言によって謀反の疑いを掛けられ守護不在の讃岐に落ち延びる。細川頼之が清氏追討の命令を受けて白峯合戦を戦い勝利(1363[貞治元])。この戦功によって細川頼之は讃岐守護と土佐守護にも任じられ四国管領と称されるようになる。

この時点での細川頼之の居城は秋月城であったが井隈庄に館を移し勝瑞と名を改めた。1363(正平18)年のことである。以降、阿波国は弟の細川詮春に与えられ、阿波細川家歴代の居城となった。代々、室町幕府の管領職を務める細川宗家(京兆家)に対して阿波細川家は阿波屋形あるいは下屋形と称された。

応仁の乱後、室町幕府管領細川政元は、この阿波細川家から細川澄元、細川野州家から細川高国、関白九条家から政基の子の細川澄之が養子として迎えられた。三人もの養子が並び立ったことで、細川政元を自身が暗殺されるという永正の錯乱が巻き起こる。

まず、細川澄之が家督を承継し、これに対して阿波細川家の澄元と家宰・三好之長が挙兵し澄之を葬った。

続いて、細川高国が大内義興と前将軍足利義稙を擁立し上洛。澄元を阿波へと退却させ高国が幕府管領に就任した。澄元の病死、三好之長の敗死により一時は阿波細川家は劣勢に立たされる。

しかし、阿波守護の細川持隆が之長の孫で長秀の長男である三好元長とともに、足利義維(堺公方)、細川晴元を将軍、管領に奉じて堺に上陸(堺幕府)。遂には、細川高国を討ち取っている。ところが、混乱はこれで収まらず、細川晴元が自身の擁立する堺公方足利義維ではなく、高国が擁立していた足利義晴の将軍職を容認する動きに出る。これに対して、三好元長は異議を唱えるも受け入れられず対立するに至る。細川晴元の従兄弟でもある阿波守護・細川持隆は三好元長を擁護し和睦仲介を取り持つも失敗。細川持隆は一向一揆軍を利用して三好元長を自刃に追い込んだ。

三好之長の子の長慶は細川持隆の庇護を受ける。やがて、細川持隆の取りなしで細川晴元への帰参が叶うが、三好長慶は三好一族の長老である三好政長(宗三)と対立し干戈を交える(江口合戦)。この戦いで政長は討死し、管領細川晴元も追放された。

この頃、細川持隆は引き続き勝瑞城館にあって、三好長慶の弟である三好義賢の輔佐を受けていた。ところが、細川持隆は絶世の美女である小少将に溺れて政治を疎んじたために、三好義賢は叛旗を翻し細川持隆を自害に追い込み勝瑞城館を掌中に収めた。三好義賢が和泉国での戦いで討死すると、勝瑞城館は子の長治が承継した。もっとも、三好義賢も長治も、持隆の子である真之を傀儡として阿波守護に据えていた。しかし、長宗我部元親の土佐統一を見た細川真之は1576(天正4)年に勝瑞城を抜け出し三好長治の傀儡から脱し烽火を挙げた。三好長治は細川真之を討つべく出陣するが叛乱の火の手は激しく、遂には板野郡長原の月見丘にて自刃に追い込まれる。

勝瑞城は三好長治の弟である十河存保(1554-1587)が織田信長の支援を得て守った。そして、兄の三好長治を自害させた細川真之を自刃に追い込んでいる。ところが、後ろ盾であった織田信長が1582(天正10)年に本能寺の変で明智光秀に討たれると形勢は逆転。阿波に侵攻してきた長宗我部元親の軍勢に囲まれ、1582(天正10)年に十河存保は城を開城し豊臣秀吉を頼って落ち延びた。

ここに、、細川氏9代、三好氏3代の約240年の歴史を誇った勝瑞城の歴史は終わったのである。


2013年4月28日訪問

向かって右から三好之長、元長、義賢、長治の墓。


四国の城館