徳島城址

室町幕府管領の細川頼之(1329-1392)が築城したことを始まりとする。

遡ると、1335(建武2)年に中先代の乱で、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児である時行(-1353)が諏訪頼重に擁立され鎌倉を攻略。鎌倉を守っていた足利直義は鎌倉を落ち、更に、駿河国手越河原でも敗れ、三河国矢作にまで撤退。この際、足利直義は、鎌倉に幽閉していた護良親王を淵辺義博に命じて殺害している。

鎌倉落ちるとの報に、足利尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないで出陣。後醍醐天皇は尊氏に征夷大将軍の号を追って与えるという慌ただしさ。尊氏は弟・直義と合流し北条時行軍と激戦を重ねる。今川頼国・頼周兄弟が戦死するなどの打撃はあったものの、遂には、鎌倉に迫り、諏訪頼重を鎌倉勝長寿院にて自害に追い込む。ここに至って北条時行は鎌倉を落ち延びた。

足利尊氏は乱を平定の後も鎌倉に留まって後醍醐天皇による上洛の命令を無視する(延元の乱)。これに対して、新田義貞の軍が京都から、北畠顕家の軍が奥州から鎌倉に迫る。足利尊氏軍は新田軍を討ち破り京都を押さえる。この時、四国にあった細川定禅は建武政権に不満を持つ香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田において後醍醐天皇方の喜岡城主・高松頼重を打ち破り、宇多津から船にて備前児島に上陸。播磨の赤松範資と合流の上で京都に入り足利尊氏に合流している。

しかし、足利尊氏軍は北畠顕家の軍によって京都を追われ九州へと落ち延びた。九州への途上、足利尊氏は播磨の室の津で軍議を開き、細川和氏・頼春・師氏の三兄弟と、その従兄弟にあたる顕氏・定禅・直俊・皇海の四兄弟の細川一族七人を四国に配した。

九州に逃れた足利尊氏は多々良浜の合戦で後醍醐天皇方の菊池氏を破り上洛を開始。1336(建武3)年には摂津国和田岬に上陸。湊川の戦いで楠木正成・正季兄弟を自刃に追い込み京都に入った。入洛すると光厳上皇の弟である豊仁親王を光明天皇として即位させ、自らを鎌倉殿と称するに至る。これが室町幕府の始まりである。

細川和氏は阿波を弟・頼春に、淡路を弟・師氏に任せた。細川頼春が七条大宮の戦いで南朝方と戦い討死すると頼之は阿波守護に任じられる。この時に助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付け、城を渭山城とした。

讃岐守護は細川顕氏から繁氏に承継されるも繁氏が急死。讃岐は守護不在となる。

続いて、頼之とは従兄弟の関係であり第2代将軍・足利義詮の執事の細川清氏が佐々木道誉の讒言によって謀反の疑いを掛けられ守護不在の讃岐に落ち延びる。細川頼之が清氏追討の命令を受けて白峯合戦を戦い勝利(1363[貞治元])。この戦功によって細川頼之は讃岐守護と土佐守護にも任じられ四国管領と称されるようになる。相模国香川郷を本拠地とする香川氏は、この時、細川頼之に従って讃岐入りし、武蔵国大里郡奈良を本拠地とする奈良氏、下総国を本拠地とする安富氏、常陸国を本拠地とする由佐氏なども共に讃岐に入った。また、香西・羽床・新居・福家氏など讃岐藤氏の一族、長尾・寒川・三木氏など讃岐橘氏と呼ばれた一族、十河・神内・三谷などの当初清氏に従った植田一族も細川頼之に従った。元寇時に、甲斐から讃岐に入った鎌倉御家人の秋山氏も細川頼之に従った。

第2代将軍・足利義詮は死の直前に子の義満の後見として細川頼之を京都に召還。頼之は佐々木道誉、赤松氏ら反斯波派の支持によって、1367(貞治6)年に管領に就任。上洛に際して、讃岐では弟・頼有を守護代とし、阿波守護は1372(応安5)年に頼有に譲っている。後に、阿波守護は弟詮春の子義之に伝えられた。これが阿波守護家(讃州家)。

永禄年間(1558-1569)には山上の渭山城に森高次、麓の寺島城に福良吉武が居城。1584(天正12)年には土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻し渭山城と寺島城も落城。

1585(天正13)年には豊臣秀吉による四国征伐によって長宗我部元親は土佐一国に封じ籠めれる。代わって、蜂須賀小六正勝(1526-1586)の子である蜂須賀家政(1558-1639)が阿波国17万5千石に封じられ、渭山城と麓の寺島城を取りこんで、豊臣政権下の天下普請として、小早川隆景や長宗我部元親が参加し築城されたのが徳島城。この築城の際に、渭津と呼ばれていた地を吉野川河口の三角州であることに因んで徳島と改めたという。

なお、徳島城築城に際して清玄坊と呼ばれる僧侶が立ち退きを拒否したために斬殺されたという伝承がある。清玄坊の父は三好義賢の祈願所に仕えた大林院勢月。元は今川義元に仕えた武将と伝わる。大林院勢月は1562(永禄5)年に渭山城の中腹に三好氏の祈願所を知行18貫とともに与えられた。1570(元亀元)年に大林院勢月が死去すると、子の大林院素月が祈願所を引き継いだ。大林院素月こと清玄坊は蜂須賀家政の命令に従わなかったために斬殺。しかし、その後、蜂須賀家に変事が続出したために、蜂須賀家政は大林院素月こと清玄坊の子の範月と和睦した。その子孫は酒巻家として現在にまで続いている。


2013年4月30日訪問


四国の城館