高松城址

玉藻城の別名を持つ輪郭式平城。高松駅からは歩いて行ける距離にある。琴平電鉄の駅からは目と鼻の先。まずは駅で讃岐うどんを堪能してからぶらりと足を伸ばした。

玉藻城というのは柿本人麻呂が万葉集で讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに由来するという。

近世海城で最大の規模を誇る高松城は、1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命によって三中老の一人であった生駒親正(1526-1603)が讃岐国17万1,800石を与えられ、野原と呼ばれた港町、香東郡篦原庄玉藻浦に築城したことに始まる。

生駒親正は引田城、聖通寺城を経て高松城を築城した(1590[天正18])。縄張りは黒田孝高、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎らの築城の名手が関わったと伝わる。

生駒親正は関ヶ原の戦いも乗り越え家督を一正に譲り、一正は子の正俊に江戸幕府からの信任の厚い伊勢津藩主の藤堂高虎の娘を正室として迎えた。

正俊の早世によって小法師(高俊)が若年で家督を承継。外祖父の藤堂高虎は前野助左衛門と石崎若狭を生駒家の家老に加え、一門の家老生駒将監・帯刀父子を牽制した。これが対立の火種となり、藤堂高虎が死去し高次が伊勢津藩を承継後、生駒家中の対立は激しさを増し、遂には生駒騒動に発展する。この生駒騒動によって1639(寛永16)年に生駒高俊は改易。

代わって、1642(寛永19)年に、水戸徳川家初代徳川頼房の長男である松平頼重(1622-1695)が12万石で封じられた。松平頼重は徳川光圀の兄であるが、父で水戸徳川家初代の徳川頼房が兄の尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣に男子が居なかったことを憚り出生を秘匿された。そのために、水戸徳川家は徳川光圀が継ぐが、松平頼重も幕府から厚く遇された。また、徳川光圀は松平頼重の実子である綱方(水戸家承継前に死去)と綱條を養子とし水戸徳川家を承継させた。

一方、頼重は光圀の実子である松平頼常(1652-1704)を養子とした。

城の整備は松平頼重、頼常と受け継がれた。


2013年4月27日訪問


四国の城館