丸亀城址

亀山(標高66メートル)を利用した輪郭式平山城。

室町幕府管領の細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築いたのが始まり。

1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命によって三中老の一人であった生駒親正(1526-1603)が讃岐国17万1,800石を与えられ高松に入り同時に亀山に支城を築いた。

生駒親正の讃岐入りは三好一族であり讃岐を本拠地としていた十河存保(1554-1587)が豊臣秀吉の四国征伐に従軍し戸次川の戦いで島津家久(1547-1587)と戦い討死したことに伴うもの。十河存保の死後、生駒親正は十河存保の嫡男千松丸を預かっていたが、十河氏の復活を阻止するために毒殺。三好一族を徹底的に排除することで体制の安定化を図った。

生駒親正は関ヶ原の戦いも乗り越え家督を一正に譲り、一正は子の正俊に江戸幕府からの信任の厚い伊勢津藩主の藤堂高虎の娘を正室として迎えた。

正俊の早世によって小法師(高俊)が若年で家督を承継。外祖父の藤堂高虎は前野助左衛門と石崎若狭を生駒家の家老に加え、一門の家老生駒将監・帯刀父子を牽制した。これが対立の火種となり、藤堂高虎が死去し高次が伊勢津藩を承継後、生駒家中の対立は激しさを増し、遂には生駒騒動に発展する。藤堂高次は前野助左衛門と石崎若狭、生駒帯刀(父は死去)に喧嘩両成敗で切腹させることで収束を図り三名も納得するも、生駒高俊が納得せずに反発。

藤堂高次は匙を投げ讃岐から伊勢津藩士を退去。江戸にあった生駒帯刀も讃岐に帰国。これを受けて、前野・石崎派が武装したまま2,300名が国許から退去した。この間、前野助左衛門が病死。幕府の裁定では、この武装退去が問題とされ、石崎、前野助左衛門の子の冶太夫らが切腹。生駒帯刀は出雲松江藩にお預け、生駒高俊は領地を没収のうえ出羽国矢島へ流罪となった(1640年)。

1641(寛永17)年に肥後国富岡藩(天草)から山崎家治(1594-1648)が丸亀に封じられ丸亀藩5万3000石が立藩することとなる。山崎家治は丸亀城の築城を行い城下町の整備に邁進。築城工事は2代目藩主の俊家(1617-1651)、3代目藩主の治頼(1650-1657)に受け継がれる。しかし、山崎治頼がわずか8歳で夭折し山崎家は無嗣断絶となる。山崎家は叔父の山崎豊治が備中国川上郡成羽5,000石を与えられて交代寄合として存続した。これは山崎家治が天草の乱(1639)の後の天草の復興に功績があったことによるものであろう。

山崎家が断絶の後、1658(万治元)年に京極高和が播州龍野藩から入封。以降、京極家が明治維新まで統治した。


2013年4月27日訪問


四国の城館