関戸城

多摩市桜ヶ丘にある古城址。この付近一帯は天守台と呼ばれている。『新編武蔵国風土記稿』によると「天守台 村の西へよりてあり、上がり三町許の山なり」。

『武蔵名勝図会』には「往古武蔵野荒野の砌は数十里を望み尽くすべし、玉川の長流眼下にあり、古え関門を置かれしとき、ここは遠望台にして、事あるときはこの台より見て、関門の警備をなさしめける由」とある。天守台と呼ばれる城山のすぐ下には関戸柵の址がある。

1333(元弘3)年の新田義貞軍による鎌倉攻めの際には関戸合戦の舞台となり壮絶な戦いが展開された。何しろ、多摩川を越すと鎌倉までは大きな障害物が無くなる。多摩川を越えられると、鎌倉幕府軍は鎌倉の七つの切り通しで防衛線を張らなくてはならない。新田義貞軍は多摩川を越え、北条泰家軍を敗走させ、この天守台に陣を敷き、鎌倉突入の準備をしたという。

この地が要害の地であったことは、それ以降も武蔵野合戦(1352)、永享の乱(1438)の舞台の一つになった他、明応3年の戦い(1494)では山内上杉顕実(古河公方足利成氏の子、顕定養子)が守る関戸城を扇谷上杉定正が攻め落としている。

扇谷上杉定正は関東管領山内上杉顕定とともに古河公方足利成氏と対峙したが、家宰の太田道潅の仲介により両上杉家と古河公方が和睦。関東管領山内上杉顕定は古河公方足利成氏の子を養子とした。山内上杉家が取り仕切った和睦に満足しない扇谷上杉定正は家宰の太田道潅を謀殺。関東管領山内上杉顕定との間に戦端を開いた。

扇谷上杉定正は劣勢を覆すため、1493(明応2)年に伊豆討ち入りを果たし堀越公方足利茶々丸を駆逐した伊勢宗瑞(北条早雲)と結んだ。そして、1494(明応3)年8月に山内上杉家の守る関戸城を落城させ、10月には武蔵国高見原にまで進出するが、荒川を渡る際に落馬しこの世を去った。