阿尾城

富山県は氷見の港のすぐ近くにある岬に榊葉乎布神社が鎮座している。この神社の境内は阿尾城址になる。そもそも、神社の名は、天正・文禄年間(1573-1596)に肥後の名門の末裔である菊池武勝が伊勢神宮から榊を城内に植樹したことに因む。菊池武勝は阿尾城を築城して氷見に勢力を張った。畠山家、上杉家に仕えた後に、織田信長の軍門に下り、佐々成政の配下に組みこまれた。しかし、織田信長が本能寺にて明智光秀によって討たれ、織田家中で佐々成政と前田利家が対立すると前田方に寝返り1万石を安堵された。前田家に従うに当たって、前田慶次郎が阿尾城代となって入城している。1585(天正13)年6月24日には、佐々方である神保氏張が攻めよせ阿尾合戦の舞台となっている。この時、城には前田慶次郎を城代として、片山延高、高畠定良ら1000余。元城主である菊池軍1000余の合わせて2000余が控えていた。

これに対して、佐々軍は神保氏張を将として5000余の軍勢で城を攻め立てた。菊池武勝、安信父子、城代である前田慶次郎らによる奮戦も空しく城は落城寸前にまで追い込まれる。攻撃の最中に、神保氏張の父で居城である越中守山城の留守居をしていた神保氏重は城内で謀反に遭い殺害。氏張は越中守山城に引き返し鎮圧をして再び阿尾城を攻めている。

その攻城の最中、前田家の家老である村井長頼が率いる前線巡視のための軍勢300余が神保が率いる佐々軍を攻め立てた。この加勢によって阿尾城は落城を免れたのである。

菊池家は菊池安信の跡を武直が承継し金沢城下に移り奉行として1500石の禄を食んだ。ちなみに、神保氏張は佐々成政が改易となった後、徳川家康に仕官し旗本として下総国香取郡伊能村2000石を得ている。

歴史の勝者は一体どちらであったのか考えさせられてしまう。

富山県内の古城廻り