威盛院光松山放生寺_東京都新宿区_高野山真言宗
 穴八幡神社の横に明治2年の廃仏毀釈まで穴八幡神社の別当だった放生寺がある。そもそも、放生寺の開祖である良昌上人こそが寛永18(1641)年に穴八幡を創建した人である。良昌上人は高野山奥之院から始まって安芸の宮島などで修行。言い伝えによると、良昌上人が夢で徳川将軍家に嗣子誕生を告げられ、この地で祈願を行ったという。これに従って、良昌上人が祈願すると、果たして、厳有院殿家綱が誕生する。こうした経緯が幕閣の伝え聞く所となる。そして、3代将軍家光が正保3(1648)年に遂に参詣。慶安2(1649)年には威盛院光松山放生寺の寺号が将軍家より下賜される。このような将軍家による帰依によって、放生寺は栄え現在の早稲田一帯は放生寺の門前町となり、葵の紋の使用が許可され、寺格として緋色、紫色、鳶色の登城三色の衣の着用も認められる。
江戸三十三観音霊場十五番札所、府内八十八霊場三十番札所

神変大菩薩
本堂と向かい合うような祠に鎮座する。寛政11年に光格帝より神変大菩薩と諡号された役の小角は大和国葛上郡掖上村の高賀茂氏の出身。修行を積み、修験道の開祖となり葛城山を拠点として日本全国に多くの峰々を開いた。足腰の弱い向きの参詣が絶えないという。
2004.2.7訪問