仙北小野寺 Onodera

藤原秀郷流山内首藤氏の庶流.小野寺禅師入道義寛が下野国都賀郡小野寺を本拠地として小野寺を称したことが起源.小野寺禅師入道義寛は小野寺城を築城したとされる.そして,小野寺太郎道綱が源頼朝による奥州征伐における戦功によって出羽国雄勝郡の地頭職を得るに至った.但し,小野寺氏の惣領家は鎌倉に住み,庶家を代官として出羽国に派遣したと考えられている.

惣領家が拠点を出羽国雄勝郡稲庭に移したのは南北朝に入ってからであろう.

小野寺泰道の子・稙道[1487-1546]は出羽国から上洛して室町幕府第10代将軍・足利義稙と第12代将軍・足利義晴に仕えた.稙道という名は足利義稙から偏諱を受けたもので輝道とも呼ばれた.父・泰道の死によって出羽国に帰国し家督を承継.湯沢城を拠点とし京都扶持衆という幕府権力を背景として,雄勝郡の稲庭・川連・三梨・東福寺・西馬音内・山田・田代・高寺に一族を配したほか,稲庭城に嗣子を送り込んで支配を確立.近隣の本郷氏・本堂氏・戸沢氏らも小野寺氏の強い影響下に置かれた.

このように小野寺氏の勢力を大きく拡大させた稙通であったが,天文15[1546]年に横手の金沢八幡宮別当金乗坊と横手城主・大和田光盛との抗争に巻き込まれ湯沢城にて暗殺された[平城の乱].

小野寺稙通の跡を継いだ景道[1534-1597]は庄内の大宝寺氏に保護され生き延びた.そして,小野寺氏の家臣で出羽国八柏館主・八柏道為[-1595]によって横手城主・大和田光盛が討ち取られ,庄内から小野寺景道を迎え入れた.復帰した景道は八柏道為とともに小野寺氏を復興し,近隣の安東氏・戸沢氏・最上氏と干戈を交えた.但し,六郷氏からは子の光道に正室を迎え入れ融和を図っている.

対最上氏の同盟関係にあった大宝寺義氏[1551-1583]が側近の酒田代官・前森蔵人[1544-1588]の謀反によって自刃に追い込まれたこと,嫡男・小野寺光道が病死したことで小野寺氏に暗雲が立ち込めてくる.

天正11[1583]年,小野寺景道の跡を継承したのは次男で鮭延[佐々木]貞綱の妹を母とする義道[1566-1646].その前の天正9[1581]年に最上義光家臣の氏家守棟[1534-1593/1595]による調略を受けた鮭延秀綱[1563-1646]が小野寺氏から離反し最上氏に寝返っている.これに対して,小野寺義道は天正14[1586]年に最上領に侵攻し楯岡満茂・最上義康[1575-1603]が率いる最上軍と激突[有野峠の戦い].結果としては最上領への侵攻は失敗に終わった.

天正18[1590]年,豊臣秀吉による小田原北条氏への征討に参陣し所領安堵を受けている.この所領安堵は太閤検地を実施することが条件とされていた.豊臣秀吉は大谷吉継[1559-1600]を軍監として上杉景勝[1556-1623]に庄内・最上・由利・仙北の検地を命令.命令を受けた上杉景勝は大森城に,大谷吉継は横手城に入り検地とともに仙北地方の35城の破却と武具狩りを実施.これに対して,増田・山田・川連の人々が挙兵し山田城・川連城に籠城.上杉景勝とその家臣・色部長真は川連城へと軍を進め一揆軍を打ち破った.一揆は終息するかに思われたが,その後,六郷[仙北郡美郷町六郷]において大谷吉継の家臣が検地に抵抗する百姓3名を殺害.この事態に百姓達は報復として大谷吉継の家臣50余名を殺害,増田館に籠城.ここに一揆が再燃.直ちに上杉景勝は軍勢を派遣.本堂氏や由利衆も上杉軍に加わった.上浦郡を中心とする一揆軍による包囲が行われる中,上杉軍は浅舞・柳田・川連・山田といった一揆軍拠点を殲滅.仙北一揆が終息後,増田館は上杉景勝家臣となっていた藤田信吉[1559-1616]が駐留.色部長真も大森城に駐留を続けて一揆再燃に備えた.

この仙北一揆[1590-]の責任を問われた小野寺義道は所領の3分の1を没収.小野寺領のうち上浦郡南部の湯沢・増田は最上義光に与えられ最上義光は楯岡満茂を守将に据えた.小野寺氏にとっては父祖伝来の地である雄勝郡は仙北一揆に先立つ豊臣秀吉による奥州仕置によって最上領とされている[1590].もっとも,小野寺義道は雄勝郡を最上義光に引き渡さず実効支配を継続した.

最上義光は八柏道為がいる限りは小野寺領の制圧は困難であると考え,家臣の楯岡満茂[1547-1639]に命じて謀略によって小野寺景道に八柏道為による謀反の嫌疑を抱かせ八柏道為を成敗させた[1595].

勢いに乗る最上義光は楯岡満茂を湯沢へと派遣し湯沢城を接収.最上軍の次なる標的とされた岩崎城主・岩崎義高[-1595]は小野寺義道に支援を要請.その中,楯岡満茂が率いる最上軍は今泉城・角間城・鍋倉城・植田城・新田目城を攻略.続いて,前森城主・原田大膳が岩崎城を攻め岩崎義高を討ち取り攻略.こうして一帯は最上領となった.

小野寺義道は慶長2[1597]年に湯沢に出兵,湯沢城を守る楯岡満茂と激突.この戦いは勝敗が付かず小野寺軍は撤兵[大島原の合戦].楯岡満茂は馬倉能登守・同右衛門尉の守る馬倉城を攻撃.大軍である最上軍を防ぎきれず馬倉能登守・同右衛門尉は横手城へと落ち延びる途上で最上軍に追撃され殲滅.劣勢に立たされていた小野寺勢は西音馬内頼道が最上領に留め置かれていた人質を奇襲により奪還.河熊城・鍋倉城・植田城・新田城を攻略し取り戻すことに成功.楯岡満茂の守る湯沢城へと迫った.ところが,小野寺勢の反攻は楯岡満茂によって押し留められ,小野寺・最上双方の一進一退の状況が継続していく.

所領の多くを失った小野寺義道は慶長5[1600]年の関ヶ原の戦いにおいては徳川家康の東軍に与した.ところが,あろうことか,西軍の上杉景勝に寝返る.この背景には徳川家康によって宿敵・最上義光の指揮下とされたということがある.

関ヶ原の戦いの後,小野寺義道は徳川家康によって改易され石見国津和野藩主の坂崎直盛[1563-1616]のもとに預けられる.坂崎直盛が自害し宇喜多氏の流れを汲む坂崎氏が断絶すると,代わって元和3[1617]年に亀井政矩[1590-1619]が入封.正保2[1645]年に小野寺義道は世を去った.津和野藩において小野寺氏は亀井家の重臣として続いた.