大崎 Ohsaki

河内源氏義国流足利氏の一門.奥州管領・斯波家兼[1308-1356]を祖とする.

斯波家兼は文和3年/正平9[1359]年に奥州管領に任ぜられ奥州中新田城を拠点として初代奥州管領・吉良貞家,二本松国詮,奥州総大将・石塔義憲[-1354]と覇を競った.彼らはいづれも室町幕府将軍足利家に連なる足利氏一門の家柄.大崎というのは,斯波氏の祖である足利家氏が領していた下総国香取郡大崎に因むもの.斯波家兼の嫡男・大崎直持[1327-1383]が名乗ったのが始まり.

まず,貞和6[1345]年に畠山高国[1305-1351]と吉良貞家が両奥州管領として陸奥国に入った.その後,室町幕府内で将軍の弟・足利直義派閥と幕府執事・高師直・将軍足利尊氏の派閥の抗争が激化.観応の擾乱[1350-1352]が勃発.将軍派の畠山高国・国氏父子は直義派の吉良貞家に攻められ討ち死に.畠山国氏の子・国詮が二本松に逃れ南朝の北畠顕信と結ぶ.奥州総大将・石塔義憲は直義派.

観応の擾乱が終結すると,文和3年/正平9[1354]年,将軍派の斯波家兼が奥州管領に任命.さらに,貞治6[1367]年に石橋棟義が奥州管領を補佐する奥州総大将に任ぜられる.これは斯波家兼の嫡男で奥州管領を引き継いだ大崎直持[1327-1383]を牽制する為だったと考えられる.

天授5/康暦元[1379]年に室町幕府管領・細川頼之[1329-1392]が斯波義将[1350-1410]らによって失脚[康暦の政変].ここに斯波氏は全盛期を迎えることとなる.そのため,斯波一族の奥州管領・大崎氏の牽制のために派遣されていた石橋棟義は勢力の縮小を余儀なくされた.ここに奥州における大崎氏の権威は確立.伊達・葛西・留守・白河・蘆名・岩城・桃生・登米などの有力国人衆が大崎氏に従った.奥州管領職は奥州探題職に変わるが,大崎氏はこの奥州探題職を世襲.大崎・名生を拠点に志田・玉造・賀美・遠田・栗原の大崎五郡を領した.

しかし,京都の室町幕府と鎌倉の鎌倉府が対立すると,鎌倉府を牽制するために室町幕府は有力国人を京都扶持衆として直接の指揮下に置く.この措置によって,相対的に奥州探題・大崎氏の地位は低下.代わって,伊達氏が急速に台頭.

大永3[1523]年,伊達稙宗[1488-1565]が陸奥国守護職に任命され,左京大夫にも任ぜられる.左京大夫は大崎氏に代々与えられてきたものであることに加え,陸奥国守護職というのも大崎氏の奥州探題職に代わるものといえる.

この事態は,大崎氏に従っていた留守・八幡・国分・山内・長江・相馬・田村・信夫の諸氏に動揺をもたらす.動揺は宿老衆の氏家・中目,親類衆の高泉・黒川にも及んだ.

そして,天文5[1536]年,遂に,氏家直継・古川持煕・新井田頼遠・高泉直堅および一迫氏が大崎義直[-1577]に反旗を翻した[天文の内乱].鎮圧に失敗した大崎義直は伊達稙宗に救援を求める事態に.伊達稙宗は大崎領に進軍し乱を鎮圧.

このような背景で,伊達稙宗の子・大崎義宣[1526-1550]が大崎義直の養嗣子として迎えられる.ところが,その後も,天文8[1539]年・天文10[1541]年に叛乱が勃発.その都度,伊達稙宗によって鎮圧された.

天文11[1542]年6月,大崎氏を軍事的保護下に置く伊達氏において,伊達稙宗・晴宗父子が争う天文の乱が勃発.大崎義宣は実父の稙宗に,義父・大崎義直は晴宗に与して干戈を交えた.天文の乱が伊達稙宗の隠居と晴宗の家督相続という形で決着すると,後ろ盾を失った大崎義宣は実弟の葛西晴清[1517-1547]を頼って落ち延びる途中,葛西領桃生郡辻堂において暗殺された.

その後,大崎義直の子・大崎義隆[1548-1603]が家督を相続.伊達政宗への代替わりを契機として伊達氏からの独立を志向するようになる.その中,天正14[1586]年に岩手沢城主・氏家吉継,富沢氏,三迫氏が大崎氏に反旗を翻した.既に豊臣秀吉によって惣無事令[1585]が出されていたが,氏家吉継からの要請を受けた伊達政宗[1567-1636]が一本柳城主・浜田景隆[1554-1591],留守政景・泉田重光・小山田頼定らを派遣.大崎軍は南条隆信が中新田城を守って伊達軍と対峙.さらに,鶴楯城主・黒川晴氏[1523-1599]が伊達軍を離脱し大崎軍に入り伊達軍を挟撃.伊達軍の留守政景は和議を結び撤退.戦いは,ここで終息せず,大崎氏の分家に当たる最上氏の最上義光が伊達氏の影響力を排除するために侵攻.蘆名義広[1575-1631]も安達郡小浜城主・大内定綱[1545-1610]を苗代田城を攻略.

戦局は膠着状態となるも,最上義光の妹で伊達政宗の母である義姫[保春院;1548-1623]の仲介によって最上義光と伊達政宗は和議を結ぶ.

その後,伊達政宗が摺上原の戦い[1589]で蘆名義広を破り常陸に逃走させると,大崎氏は再び伊達氏に従属.

大崎義隆は天正17[1589]年に上杉景勝によって豊臣秀吉に謁見するための上洛を促す.しかし,伊達軍の侵攻を警戒する大崎義隆は応じなかった.天正18[1590]年に,伊達政宗が小田原攻めで出陣していた豊臣秀吉のもとへ参陣.小田原の北条氏直[1562-1591]が豊臣秀吉に降伏すると,豊臣秀吉は会津黒川へと北上進軍.慌てた大崎義隆は家臣を派遣し宇都宮で豊臣秀吉の陣営に到着.

しかし,時既に遅く,会津黒川城に入城した豊臣秀吉は小田原に参陣しなかった大名の取り潰しという奥州仕置を行った.直ちに,蒲生・伊達両軍が大崎領に侵攻.中新田城・古川城・岩手沢城を接収.

大崎義隆は石田三成を頼って所領復活のために上洛.ところが,旧領において新領主の木村吉清[-1598]・清久[-1615]父子に対して,葛西・大崎両氏旧領の胆沢・江刺・磐井・気仙・本吉・登米・桃生・牡鹿・栗原・遠田・志田・玉造・加美の旧臣らが蜂起[葛西大崎一揆;1590].伊達政宗による関与が疑われたものの,その嫌疑を払拭した伊達政宗は豊臣秀吉によって豊臣秀次・徳川家康を援軍として一揆の掃討を命じられる.一揆勢の抵抗は凄まじく,伊達政宗は一本柳城主・浜田景隆や伊具郡小斎城主・佐藤為信を討ち死ににより失う.しかし,寺池城を陥落させると一揆勢は降伏.伊達政宗は桃生郡須江山に一揆勢を呼び出し名取郡岩沼城主・泉田重光[1529-1596]と刈田郡白石城主・屋代景頼[1563-1608]に命じて殲滅させた.また,馬場定重・頼重父子によって小野城主・長江勝景を討取らせた.

葛西大崎一揆後,新領主であった木村吉清は一揆の鎮圧に失敗した責任により改易.葛西・大崎旧領は伊達政宗に与えられ,大崎義隆による旧領回復は夢と潰えた.

なお,伊達政宗は葛西・大崎旧領を得たものの,長井・信夫・伊達・安達・田村・刈田の6郡は没収され蒲生氏郷に与えられた.このような豊臣秀吉の措置の背景には葛西大崎一揆が会津領を失った伊達政宗によって扇動されたものと見做されたことがあろう.